キハ58 58



1961年6月10日富士重工製の1-2次車で、昭和36年度本予算(内示)で松本機関区へ配置された。同一ロット57・58両車とも松本へ配置された。松本には同時期にキハ58が一挙に投入されており、もちろん中央東線の急行「アルプス」で運用された。中央東線では長大編成を組み活躍したが、1963年には長大編成対応の400番台が一挙に投入され、松本配置の基本番台は早くも追われる立場となってしまう。そのため1963年6月6日付で新潟へ転属した。新潟では急行「きたぐに」「赤倉」等で活躍したが長くなく、同区への長大編成対応車の増備により1963年12月12日付で大分へ転属した。大分では豊肥本線・久大本線系統の急行「由布」「火の山」を中心に活躍した。しかし1964年には大分への長大編成対応車の増備により捻出され、当年度中に高松へ転属した。高松では長く使用され、四国全域の急行列車で活躍した。尚、1966年には夏季輸送対応で名古屋へ応援に行き、また1972年頃には冷房化された。1973年には高松に特急用キハ181系が投入された関係で高徳本線急行は徳島へ移管されることになり、主に若番車が集められ当車も徳島へ転出した。以降は徳島をベースに急行に使用された。1978年には長野から高松に大量のキハ57が転入し、これと玉突きで高松から徳島へ更に車両の移動が行われ、その際に高松にいた若番車が各地へ転出する玉突きが行われた。当車は1978年10月13日付で兄弟の58とともに熊本へ転出し、急行「えびの」増強で使用されるようになった。熊本は生え抜きの後期車が主で、若番車は異端車であった。1980年以降も各地から若番車が熊本には転入し、キハ55に代わり豊肥本線の普通列車でも使用されるようになる。しかしながら国鉄末期には、急行「えびの」の運転区間短縮及び編成短縮、また普通列車にはキハ31の投入により後に転入した若番車は軒並み余剰となり、1987年2月6日付で廃車となった。

前面は、前面補強が施工されていない。ワイパーはWP50へ更新はされ、それに伴い正面運転席窓下の手すりが若干下がっているのは九州標準の形態である。1-2次車のステップはタイフォン上部に設置されていたが、四国時代に左右とも撤去されている。放送用ジャンパ受栓は、四国若番車標準の、助手席側タイフォン右上に、足掛けと一体化した栓受を使用している。制御用ジャンパ受栓は、タイフォン下部で寄り添う位置へ移設されている。タイフォンカバーは原形のスリット式カバーである。テールライトは、原形の内ばめ式のままである。当車は1980年代前半に熊本で見られた、貫通路渡り板グレー仕様である。
側面はほぼ原形である。
屋根上は標準的な冷房車の形態である。
床下もほぼ原形のままである。


キハ58イラストのページへ戻る

キハ58系のページへ戻る

ホームへ戻る