キハ58 61



1961年6月20日富士重工製の1-2次車で、昭和36年度本予算(内示)で松本機関区へ配置された。同一ロット59〜61全車が松本へ配置された。松本には同時期にキハ58が一挙に投入されており、もちろん中央東線の急行「アルプス」で運用された。中央東線では長大編成を組み活躍したが、1963年には長大編成対応の400番台が一挙に投入され、松本配置の基本番台は早くも追われる立場となってしまう。そのため1963年6月19日付で山形へ転属した。山形では急行「ざおう」「べにばな」等で活躍した。しかし山形での活躍は短く、運用移管及び需給の関係で1964年5月8日付で新潟へ転属した。新潟では急行「きたぐに」「赤倉」「いいで」等で活躍し、転属後すぐには房総地区夏季海水浴輸送に駆り出され、同年7月9日付で千葉へ転属し、夏季海水浴輸送終了後の9月8日付で新潟へ戻っている。しかし当時新潟へも長大編成対応車が増備されており当車はすぐに捻出され、9月23日付で大分へ転属した。大分では豊肥本線・久大本線を中心に主に九州北部の急行で活躍し、1964年度末には需給の関係で竹下へ転属するが、翌1965年度中には大分へ戻っている。その後も引き続き急行「由布」「火の山」「ひまわり」「ゆのか」等で活躍したが、1970年に大分へキハ65が新製投入されると当車は捻出され、1970年2月26日付で鳥取へ転属した。鳥取では山陰本線や因美線系統の急行で活躍したが、山陽新幹線岡山開業に伴う「72-3改正」で山陰地区の急行は大幅な見直しが行われ、当車は広島へ転属した。広島では山陽本線から九州へ向かう急行「青島」のほか、芸備線の急行「ちどり」「たいしゃく」で活躍した。そして1974年頃には冷房化改造されている。山陽新幹線博多開業に伴う「50-3改正」で急行「青島」が廃止された後は急行「ちどり」「たいしゃく」で長く活躍したが、「57-11改正」で減車及び運用見直しにより当時汚物処理装置未装備であった当車は捻出され、1982年12月19日付で人吉へ転属した。転属目的はキハ55の置き換えであり主に肥薩線の普通列車で使用されたが、冷房車であったことから急行「くまがわ」で博多へ顔を出すこともあった。「60-3改正」では急行「くまがわ」の減車により捻出され1985年3月14日付で熊本へ転属し、非冷房キハ58を置き換え豊肥本線の普通列車の他、急行「えびの」でも使用された。しかしながら国鉄末期には、急行「えびの」の運転区間短縮及び編成短縮、また普通列車にはキハ31の投入により後に転入した若番車は軒並み余剰となり、1987年3月30日付で廃車となった。

前面は、前面補強が施工されていない。ワイパーはWP50へ更新はされ、それに伴い正面運転席窓下の手すりが若干下がっている。1-2次車のステップはタイフォン上部に設置されていたが、運転席側は冷房電源用ジャンパ受栓設置にともない撤去され、助手席側のみタイフォン上部に残存している。放送用ジャンパ受栓は、タイフォン横に台座付きで設置されている。制御用ジャンパ受栓は、タイフォン下部で左右離れた位置へ移設されている。タイフォンカバーは原形のスリット式カバーである。テールライトは、原形の内ばめ式のままである。
側面はほぼ原形であるが、広島時代の名残の、正面中央部窓下のサボ挿しが九州では異彩を放っている。
屋根上は標準的な冷房車の形態である。
床下もほぼ原形のままである。


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