キハ58 62



1961年6月29日富士重工製の1-2次車で、昭和36年度本予算(内示)で松本機関区へ配置された。同一ロット62〜64全車が松本へ配置された。松本には同時期にキハ58が一挙に投入されており、もちろん中央東線の急行「アルプス」で運用された。中央東線では長大編成を組み活躍したが、1963年には長大編成対応の400番台が一挙に投入され、松本配置の基本番台は早くも追われる立場となってしまう。そのため1963年7月3日付で梅小路へ転属した。梅小路では京都から紀勢本線方面へ向かう急行「志摩」「くまの」「はまゆう」「しらはま」や山陰本線の急行「丹後」で活躍した。山陽新幹線岡山開業に伴う「47-3改正」で梅小路機関区の気動車配置が向日町へ統合され予備車の見直しが行われ、また山陰本線系統の急行も一部整理されたため当車は捻出され、同改正後に米子へ転属した。米子では急行「だいせん」「伯耆」「さんべ」を中心に活躍し、1970年代中盤までに冷房化されている。その後1975年5月6日付で需給の関係で鳥取へ転属し、急行「だいせん」のほか、「白兎」「砂丘」「みささ」「但馬」等で活躍した。1981年4月1日には需給の関係で再び米子へ戻ったが、1982年7月1日の伯備線電化に伴うダイヤ改正で急行「伯耆」が廃止されたため余剰となり、1982年7月4日付で亀山へ転属した。亀山ではキハ55系や35系に代わり関西本線・信楽線・片町線・紀勢本線等の普通列車で活躍するようになった。しかし「60-3改正」で和歌山から、「61-11改正」で丹波山陰地区から後期車が転入すると余剰となり、1987年2月10日付で廃車となった。

前面は、亀山時代に名古屋工場で前面補強が施工されている。ワイパーは原形のWP35のまま、正面窓下の手すりも原形のままですっきりした顔立ちである。1-2次車のステップはタイフォン上部に設置されていたが、前面補強時に左右とも2次車以降に準じタイフォン横へ移設されている。放送用ジャンパ受栓は、ステップ下部に設置されている。制御用ジャンパ受栓は、タイフォン下部で左右離れた位置へ移設されている。タイフォンカバーは原形のスリット式カバーである。テールライトは、原形の内ばめ式のままである。当車は亀山時代は非冷房車扱いであったのか、正面の冷房制御用ジャンパが撤去されている。
側面はほぼ原形である。
屋根上は標準的な冷房車の形態である。
床下もほぼ原形のままである。


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