キハ58 68



1961年9月20日富士重工製の1-2次車で、昭和36年度本予算(内示)で青森運転所へ配置された仲間の1両。同一ロット68〜70のうち、当車のみが青森へ配置されている。青森では急行「しらゆき」等の幹線急行で使用開始した。1964年には青森に長大編成対応車が新製配置されることになり、当車は九州へ異動することになるが、まず1964年5月27日付で苗穂へ移動し、北海道の夏季輸送に使用された後、1964年10月10日付で直方気動車区へ転出した。直方では急行「日田」や800番台とともに波動用などで主に使用された。しかし需給の関係で1971年には長崎へ転出し、長崎本線系統や松浦線の急行で使用されるようになり、九州では遅く1972年に冷房化された。長崎本線電化後もローカル輸送を中心に活躍したが、「59-2改正」で長崎本線の普通列車電車化が進められ、当車は1984年2月1日付で竹下へ移動し、九州北部のローカル輸送で使用されるようになった。国鉄末期の「61-11改正」では車両の需給調整から再び長崎へ転出し、そのままJR九州へ継承された。JR化後は長崎本線・大村・松浦線で使用されたが、1988年の松浦線廃止時に再び竹下へ転属した。その後1988年7月28日には九州色へ塗装変更された。翌1989年3月11日には再び長崎へ転出し、新設された快速「シーサイドライナー」を中心に活躍した。1992年7月には、急行「由布」「火の山」の特急化により、アコモ改造された車両が大量に長崎へ転入することになり、当車は入れ替わりで1992年7月15日付で熊本へ転出、主に豊肥本線や肥薩線の普通列車で使用されるようになった。その後1994年には需給の関係で1994年7月1日付で鹿児島へ転出した。鹿児島では非ワンマン車であることから指宿枕崎線や日豊本線の運用で使用されたが、老朽化のため1996年12月12日付で廃車となった。

前面は、国鉄時代の小倉工場標準タイプの前面補強がされている。。ワイパーはWP50へ更新はされ、手すり・ステップの位置や制御用KE53ジャンパ受栓の位置等、九州標準の形態。放送用ジャンパ受栓は、JR九州化後の小倉工場標準である、助手席側タイフォン上部・レールライト横へ移設されている。タイフォンカバーは、スリット状ながら九州特有の形態のものを装備している。
側面は、運転席側窓の点検蓋が開けられている以外は、ほぼ原型である。
屋根上は冷房化以降、特に手を加えられていない。
床下では、前位側へスカートの取り付けが行われているのは九州の共通事項。機関は原型のDMH17Hエンジンを装備しているが、機関予熱器は撤去されている。油タンクは原型のままである。


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