キハ58 71



1961年12月12日日本車輌製の2次車で、昭和36年度本予算(残)で松本機関区へ配置された。同一ロット71〜74全車が松本へ配置されている。松本には同時期にキハ58が一挙に投入されており、もちろん中央東線の急行「アルプス」で運用された。中央東線では長大編成を組み活躍したが、1963年には長大編成対応の400番台が一挙に投入され、松本配置の基本番台は早くも追われる立場となってしまう。そのため1963年7月12日付で大分へ転属した。大分では豊肥本線・久大本線系統の急行「由布」「火の山」を中心に活躍した。しかし転属後間もなく1963年度中に竹下へ転属し、主に長崎本線や九州北部の急行で活躍するようになった。1970年10月のダイヤ改正ではキハ65の竹下への増備や鹿児島本線全線電化による運用改正で捻出され、再び大分へ転属した。大分では豊肥本線・久大本線系統の急行「由布」「火の山」「西九州」を中心に活躍し、1972年頃までに冷房化されたが、1972年3月のダイヤ改正で急行「西九州」の運用移管もあり長崎へ転属した。長崎では長崎本線系統の急行「いなさ・弓張」や「西九州」で活躍した。1976年7月1日の長崎本線電化によるダイヤ改正で急行「出島」は4往復削減となり、当車は急行で使用されていたキハ55系の置き換えとして、1976年7月8日付で名古屋第一機関区へ転出する。名古屋では急行「きそ」「紀州」「のりくら」等で使用されたが、1982年5月17日関西本線名古屋口電化に伴う時刻修正で関西本線系統の急行に減車が行われ、当車は普通列車で使用されていた老朽キハ55置き換えのため1982年5月19日付で美濃太田へ転属した。美濃太田では前述の通り高山本線の普通列車の他、他車に混じって急行「のりくら」でも使用された。「59-2改正」では夜行「のりくら」の廃止もあり所要数が減少し、当車は当時美濃太田で最若番であったことから他区へ転用されることとなり、1984年2月2日付で七尾へ転属した。七尾では残っていいた非冷房キハ58に代わり急行「能登路」や七尾線の普通列車で活躍した。しかし「61-11改正」で急行廃止により名古屋地区や山陰地区から状態の良いキハ58系が転入すると玉突きで余剰となり、1987年1月14日付で廃車となった。

イラストは名古屋時代の1981年頃の形態である。
前面は、名古屋工場で前面補強されている。ワイパーは原形のWP35のまま、正面窓下の手すりも原形のままですっきりした顔立ちである。放送用ジャンパ受栓はステップ一体型である。制御用ジャンパ受栓は、タイフォン下部で左右離れた位置へ移設されている。タイフォンカバーはスリット状である。テールライトは、原形の内ばめ式のままである。
側面は、運転席側窓の点検蓋が開けられている以外は、ほぼ原形である。
屋根上は標準的な冷房車の形態である。
床下もほぼ原形のままである。


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