キハ58 86



1962年2月19日日本車輌製の2次車で、昭和36年度本予算(残)で沼津機関区へ配置された。同一ロット85〜88のうち、86〜88の3両が沼津へ配置されている。沼津へのキハ58系配置は謎が多く、当時沼津では御殿場線の運用を受け持っており勾配路線であることから多くのキハ51が配置されていたが優等列車の運用はなく、何の目的で沼津に配置されたのかは不明である。翌1963年時点では名古屋に配置されていることから単なる仮配置なのかもしれない。前述のとおり1963年の時点では名古屋へ配置されており、中央西線の急行「しなの」をはじめ、高山本線や紀勢本線等で広く活躍した。しかし1963年には長大編成用の400番台が中央東線に新製投入され、捻出された0番台が名古屋に転入したことから車両の入れ替えが発生し、当車は1963年6月21日付で梅小路へ転出した。梅小路では京都から紀勢本線方面へ向かう急行「志摩」「くまの」「はまゆう」「しらはま」や山陰本線の急行「丹後」で活躍した。山陽新幹線岡山開業に伴う「47-3改正」で梅小路機関区の気動車配置が向日町へ統合され予備車の見直しが行われ、また山陰本線系統の急行も一部整理されたため当車は捻出され、同改正後に米子へ転属した。米子では急行「だいせん」「伯耆」「さんべ」を中心に活躍し、1970年代中盤までに冷房化されている。その後「59-2改正」で急行の編成見直しにより余剰となり、1984年2月4日付で亀山へ転属した。亀山ではキハ55系や35系に代わり関西本線・信楽線・片町線・紀勢本線等の普通列車で活躍するようになった。しかし「60-3改正」で和歌山から、「61-11改正」で福知山・山陰地区から後期車が転入すると余剰となり、1987年2月10日付で廃車となった。廃車後は部品取り用として有田鉄道に売却されたが、その後解体され現存しない。

前面は、米子時代に後藤工場タイプの前面補強が施工されている。ワイパーはWP50へ更新され、運転台側正面窓下手すりは前述の通り後藤工場標準のやや短い手すりに交換されている。制御ジャンパ受栓及びステップの位置は、後藤工場標準の位置にある。放送ジャンパ受栓は、ステップ下部に設置されている。タイフォンカバーは原形のスリット式カバーである。テールライトは、原形の内ばめ式のままである。
側面はほぼ原形であるが、5次車以降に準じ乗降扉下部隅に丸窓が追設されている。
屋根上は標準的な冷房車の形態であり特筆すべき点はない。
床下もほぼ原形のままである。


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