キハ58 88



1962年2月19日日本車輌製の2次車で、昭和36年度本予算(残)で沼津機関区へ配置された。同一ロット85〜88のうち、86〜88の3両が沼津へ配置されている。沼津へのキハ58系配置は謎が多く、当時沼津では御殿場線の運用を受け持っており勾配路線であることから多くのキハ51が配置されていたが優等列車の運用はなく、何の目的で沼津に配置されたのかは不明である。翌1963年時点では名古屋に配置されていることから単なる仮配置なのかもしれない。前述のとおり1963年の時点では名古屋へ配置されており、中央西線の急行「しなの」をはじめ、高山本線や紀勢本線等で広く活躍した。しかし1963年には長大編成用の400番台が中央東線に新製投入され、捻出された0番台が名古屋に転入したことから車両の入れ替えが発生し、当車は1963年10月6日付で盛岡へ転出した。以降当車は北東北をメインで活躍する。盛岡では急行「陸中」等の東北本線の幹線急行で活躍し、1966年度には青森運転所のキハ58系増強で青森へ転出する。青森では主に急行「しらゆき」等の奥羽本線・羽越本線の急行で使用されたが、1972年には青森への485系電車増強により気動車の他区への移管が行われ、当車は需給の関係で1972年3月11日付で新潟へ転出した。新潟では中央西線の急行「赤倉」や北陸本線の急行「越後」をメインに新潟周辺の急行で使用されたが、1972年10月に急行「越後」の運用が長野へ移管されて所要数が減少し、当車は1972年10月2日付で山形へ転出した。山形では幹線急行の「ざおう」や「出羽」をはじめ「あさひ」「べにばな」「もがみ」等の支線急行でも長く活躍したが、「55-10改正」で日豊本線電化により冷房キハ58が九州から山形へ大量に転入し、当車は玉突きで1980年10月10日付で弘前へ転出した。弘前では急行「深浦」や「むつ」等奥羽本線北部を中心に活躍し、東北新幹線開業の「57-11改正」では急行が大幅削減された後は弘前をベースに五能線や花輪線のローカル輸送をメインに使用されるようになった。そしてそのままJR東日本へ継承された。JR化後も引き続き五能線や花輪線、田沢湖線等で活躍し1990年前後には「弘前色」へ変更された。しかし1990年より始まったキハ110系大量投入による車両転配の中で余剰となり、1992年9月1日付で廃車となった。

前面は、東北地区では珍しく前面補強された形跡が無い。ワイパーは原形のWP35のままで、正面窓下の手すり位置も原形のままである。正面窓上の通風口は両側とも残存している。テールライトは原形の内ばめ式のままである。タイフォンカバーは、両側とも回転蓋式となっている。放送用ジャンパ線受は、秋田地区標準位置の、テールライトの左下付近に移設されている。
屋根上はほぼ原形のままである。
側面は、概ね原形であるが、晩年の東北地区配置車共通で、車体中央付近側窓下にサボ挿しが追加されている。
床下もほぼ原形で、単線用スノープロウを付けている。


キハ58イラストのページへ戻る

キハ58系のページへ戻る

ホームへ戻る