キハ58 95



1961年10月20日富士重工製の2次車で、昭和36年度本予算(残)で松本機関区へ配置された。同一ロット93〜95全車が松本へ配置されている。松本では急行「アルプス」等中央東線急行で活躍した。中央東線では長大編成を組み活躍したが、1963年には長大編成対応の400番台が一挙に投入され松本配置の基本番台は早くも追われる立場となってしまい、1963年7月頃に名古屋へ転出した。名古屋では、中央本線・関西紀勢本線・高山本線の急行で使用され、「きそ」「紀州」「のりくら」等で活躍した。1970年には需給調整でお隣の美濃太田区へ転出する。翌1971年度にも需給調整で更に隣の金沢区へ転出する。金沢では北陸本線〜七尾線直通急行及び金沢〜山陰方面急行を中心に使用された。金沢時代の1972年度には冷房化されている。「53-10改正」で金沢担当の急行「ゆのくに」が電車化されることになり、当車は急行「能登路」のキハ55系置き換えのため1978年10月2日付で七尾へ転出している。その後「55-10改正」では敦賀担当の急行「わかさ」「はしだて」の冷房化が行われることになり、七尾から当車が1980年10月21日付で敦賀へ転出した。そして敦賀配置のままJR西日本へ継承された。JR化後は普通列車運用と急行運用が分けられたが、若番車が急行に充当され、当車も急行用となった。1991年7月の七尾線和倉電化及び輪島までの第三セクター化により車両の大幅な転配・整理が行われ、山陰本線50系客車置き換えのため1991年7月に小郡へ転出した。小郡では、ボックスシート車ながら黄色の広島普通色に塗装され、ローカル普通列車専用となった。1995年10月1日には組織変更で山口鉄道部となるが、引き続き小郡をベースに下関地区で普通列車に使用された。しかし1990年末期には各地からキハ40系が転入し、当車は老朽化のため1997年4月8日付で廃車となった。

前面は、金沢時代に前面補強がされているが、補強板の境目は分かりづらい。ワイパーは強化型のWP50へ改造されており、運転室窓下の手すりは撤去され、金沢局標準の形態である。制御用KE53ジャンパ受栓の位置は、左右離れた位置に設置されている。放送ジャンパ受栓は、ステップ下部に台座付きで設置されている。テールライトは左右両側とも原形のままである。タイフォンカバーは、原形のスリット状のままである。正面窓上の通風口は残っているが、雨どいは撤去されている。
側面は、乗務員室窓水切りが撤去されている。運転席側窓バランサー点検蓋は、縦長の開口部に蓋がビス止めで設けられているものと、金沢によく見られる台枠裾付近の開口と、2つある。広島地区の特徴として側面ほぼ中央部窓下にサボ差しが追設されている。
屋根上は、標準的な冷房車の形態であるが、水タンクは新潟・金沢地区特有の、平らな形状のものに更新されている。。
床下は、ほぼ原形である。


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