キハ58 96



1961年11月15日富士重工製の2次車で、昭和36年度本予算(残)で松本機関区へ配置された。当ロットは1両のみである。松本では急行「アルプス」等中央東線急行で活躍した。中央東線では長大編成を組み活躍したが、1963年には長大編成対応の400番台が一挙に投入され松本配置の基本番台は早くも追われる立場となってしまい、1963年7月頃に名古屋へ転出した。名古屋では、中央本線・関西紀勢本線・高山本線の急行で使用され、「きそ」「紀州」「のりくら」等で活躍した。1965年には新製された400番台車と入れ替わり転出することとなり、7月1日付で夏季輸送用に千葉へ転出し、夏季輸送終了後9月27日付で高松へ転出した。高松では四国全域の急行で使用され、1972年度には冷房化された。その後も長く四国全域で使用されたが、1978年には長野から高松に大量のキハ57が転入し、これと玉突きで高松から徳島へ車両の移動が行われ、その際に1978年10月12日付で徳島へ移動した。徳島では高徳本線の急行「阿波」「むろと」等で使用されたが、1980年には四国全体で短編成化が行われ、この時に後期車が徳島へ転入したことから当車は捻出され、1980年10月14日付で七尾へ移動した。七尾では残存していた非冷房キハ58やキハ55系を置き換え、急行「能登路」や普通列車で活躍した。七尾では長く活躍し、そのままJR西日本へ継承された。JR化後は、1988年に能登線が廃止された関係で余剰となり、山陰本線京都口の50系客車列車の気動車化のため1988年9月10日付で福知山へ転出した。福知山では山陰本線の他、舞鶴線・宮津線等で使用されたが、1990年には山陰本線園部電化及び宮津線の廃止により捻出され、当車は客車列車の気動車化のため1990年3月8日付で米子へ転出した。米子では主に快速や普通列車で使用されたが、普通列車のワンマン化・短編成化が進み余剰となり、1994年3月4日付で廃車となった。

前面は、金沢時代に前面補強がされているが、補強板の境目は分かりづらい。ワイパーは強化型のWP50へ改造されており、運転室窓下の手すりは撤去され、金沢局標準の形態である。制御ジャンパ受栓及びステップの位置は、多度津工場標準の位置にある。放送用ジャンパ受栓は、当初四国若番車標準の、助手席側タイフォン右上に、足掛けと一体化した栓受を使用している。タイフォンカバーはスリット状であるが、助手席側に金沢地区特有の傘タイプのカバーが付いている。テールライトは、運転席側のみ外ばめ式で、金沢地区に見られた形態である。
側面はおおむね原形である。
屋根上は標準的な冷房車の形態で特筆すべき点は無い。
床下も、ほぼ原形である。


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