キハ58 105



1962年1月31日富士重工製の2次車で、昭和36年度本予算(残)で和歌山機関区へ配置された。同一ロット105〜107のうち、105・106が和歌山へ配置されている。和歌山では急行「きのくに」をはじめ紀勢本線の急行列車で使用されたが、1964年に和歌山へ長大編成対応の400番台が増備された際に捻出され、1964年10月31日付で水戸へ転属した。水戸ではキハ55系に混じり常磐線や水郡線・磐越東線の急行で使用された。1965年度には千葉地区の海水浴輸送に使用されることになり、千葉へ転属した。夏季輸送終了後は10月10日付で大分へ転属するが翌1966年2月24日付で再び千葉へ転属した。千葉地区は急峻な峠が無く1エンジンのキハ26・28の配置が保トンであったため、キハ58は珍しい存在であった。その後も唯一のキハ58として1972年まで千葉に定常的に在籍したが、1972年7月の外房線全線電化に伴うダイヤ改正で用途を失い、7月19日付で水戸へ転属した。その後も1975年までは夏季には貸し出し扱いで千葉へ応援に行くこともあった。水戸では以前と同様、急行「奥久慈」「いわき」等で活躍した。長く水戸・千葉で活躍した同車であったが、「55-10改正」で徳島から大量の冷房キハ58が水戸へ転入すると非冷房車は捻出され、当車は1980年10月21日付で盛岡へ転属した。盛岡ではキハ55系を置き換え、花輪線・山田線・釜石線の普通列車の他、急行「陸中」等でも使用された。「60-3改正」では急行「陸中」冷房化のため盛岡へ冷房車が転入した関係で非冷房車が捻出され、当車は1985年3月15日付で弘前へ転属した。弘前ではキハ22を置き換え、五能線や花輪線等で使用されたが、1986年3月のダイヤ改正で他系列を含む大幅な転配が行われた際に余剰となり、1986年3月31日付で廃車となった。

イラストは盛岡へ転属前の1975年時点のものであり、末期には形態が変化していたものと思われる。1980年代の情報をお持ちの方がいらっしゃったらぜひご教示願いたい。
前面は、前面補強が施工されていない。ワイパーは原形のWP35のままであり、運転室窓下の手すりも原形のままである。テールライトは原形の内ばめ式のままである。タイフォンカバーは、千葉・水戸時代はスリット式カバーのままである。放送用ジャンパ受栓は、タイフォン横にステップ一体型台座で取り付けられている。当車は千葉に長く配置されていたのでもちろん貫通ドアに千葉ヘッドマークステイが取りつけられており、これは晩年まで残っていたものと思われる。
側面は、千葉・水戸地区に良く見られる、少々小ぶりな運転席窓バランサー点検口が開けられている。
屋根上はほぼ原形のままである。
床下もほぼ原形である。


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