キハ58 111



1962年2月14日富士重工製の2次車で、昭和36年度本予算(残)で和歌山機関区へ配置された。同一ロット110・111両車が和歌山へ配置されている。和歌山では急行「きのくに」をはじめ紀勢本線の急行列車で使用されたが、1963年に和歌山に大量の長大編成用キハ28 300番台が投入された際にキハ58 0番台が各地へ転出し、当車は1963年度中頃に米子へ転出した。米子では急行「だいせん」等の山陰本線急行で使用されたが、米子に400番台のキハ58が増備された際に捻出され当車は1965年12月23日付けで美濃太田へ転出した。美濃太田では急行「のりくら」をはじめ高山本線の急行を中心に使用され、1971年頃に冷房化された。1972年10月のダイヤ改正で急行「しろがね」「こがね」の系統分離に伴う運用減少で余剰となり、お隣の名古屋へ転出した。1973年には車両交換で再び美濃太田へ戻り、更に1975年5月28日には名古屋へ転出、1978年10月2日には美濃太田へ転出と、名古屋と美濃太田を転々とした。国鉄末期の「59-2改正」では「のりくら」の夜行運用と金沢運用が廃止され、その際に余剰となり1984年2月3日付で敦賀へ転出、小浜線の客車列車気動車化を進めた。敦賀では普通列車の他急行「わかさ」「はしだて」にも使用された。そしてそのままJR西日本へ継承された。JR化後は急行専属車となりボックスシート・急行色のままで活躍した。1991年7月の七尾線和倉電化及び輪島までの第三セクター化により車両の大幅な転配・整理が行われ、山陰本線50系客車置き換えのため1991年7月に小郡へ転出した。小郡では、ボックスシート車ながら黄色の広島普通色に塗装され、ローカル普通列車専用となった。1995年10月1日には組織変更で山口鉄道部となるが、引き続き小郡をベースに下関地区で普通列車に使用された。しかし1990年末期には各地からキハ40系が転入し、当車は老朽化のため1999年3月31日付で廃車となった。

外観は名古屋局時代の形態を色濃く残している。
前面は、名古屋工場で前面補強が施工されている。ワイパーは強化型のWP50へ改造されており、運転室窓下の手すりは撤去され、金沢局標準の形態である。制御用KE53ジャンパ受栓の位置は、タイフォンの左右に設置されている。放送ジャンパ受栓は、ステップ下部に台座付きで設置されている。テールライトは左右両側とも外ばめ式に改造されている。タイフォンカバーは、シャッター付きに改造されている。正面窓上の通風口は残っているが、雨どいは撤去されている。
屋根上は、標準的な冷房車の形態であるが、水タンクは新潟・金沢地区特有の、平らな形状のものに更新されている。。
側面は、乗務員室窓水切りが撤去されている。運転席側窓バランサー点検蓋は、縦長の開口部に蓋がビス止めで設けられているものと、金沢によく見られる台枠裾付近の開口と、2つある。広島地区の特徴として側面ほぼ中央部窓下にサボ差しが追設されている。
床下は、ほぼ原型である。


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