キハ58 117



1962年3月23日富士重工製の3次車で、昭和36年度利用債で名古屋機関区へ配置された。同一ロット117〜119全車が名古屋へ配置されている。名古屋では、新設された中央西線急行「しなの」等で使用開始した。しかし1963年には早くも名古屋に長大編成対応の400番台が投入されることになり、同一ロットの117〜119揃って遠く人吉へ転出し、新設される急行「くまがわ」に使用されるようになった。その後1968年には1100番台の新製にあわせて若番車が捻出され、当車は1968年5月に一旦苗穂に移動し、北海道夏季輸送に使用された後、9月7日付で高松へ転出した。以降四国で長く使用され、1969年度には冷房化された。1975年の特急「しなの」完全電車化の際にキハ181系が四国へ転入し急行の特急格上げが行われ、その際に捻出され当車は1975年3月16日付で和歌山へ転出した。和歌山では急行「きのくに」で使用されたが、1978年10月の紀勢西線電化により捻出され、1978年10月13日付で水戸機関区へ転出、水戸区の非冷房キハ58系を置き換えた。水戸では、常磐無線を装備しないことから主に水郡線・磐越東線系統の急行に使用された。東北新幹線開業の「57-11改正」で磐越東線急行が廃止された後も残った急行「奥久慈」で使用され、「奥久慈」廃止後は水郡線の普通列車で使用され、そのままJR東日本へ継承された。JR化後は、1989年頃に水郡線色に変更された。水郡線では、1991年8月には機関がカミンズ製DMF14HZへ換装された。その後、普通列車のキハ40系ワンマン化及びその後キハ110系投入が行われたが、当車は水郡線色のまま、波動用に使用された。しかしながら、老朽化のため波動用車がキハ40系に置き換えられる事となり、1996年6月28日付で廃車となった。

前面は、大宮工場で前面補強が施工されている。ワイパーは強化型のWP50へ改造されており、その際に手すりが関西・山陰地区のように短いものに変更されている。制御用KE53ジャンパ受栓の位置は、タイフォンの左右に設置されている。放送用ジャンパ受栓は、当初四国若番車標準の、助手席側タイフォン右上に、足掛けと一体化した栓受を使用している。テールライトは左右両側とも外ばめ式に改造されている。タイフォンカバーは、原型のスリット式のままである。正面窓上の通風口・水切りは原型のままである。運転席側にデフロスタがあるが、取付台座が水戸地区特有のものとなっている。
側面は、機関換装時に給水口が埋められている。運転席側窓バランサー点検蓋が開けられ、鉄板で塞いである。乗降扉の点検蓋は、後期車と同じ横長のものに改造されており、四国の標準形態であった。和歌山時代に、400番台車のように乗降ドア下部隅に丸窓が設けられたが、JR化後に鉄板で塞がれた。
屋根上は、標準的な冷房車の形態である。冷房化後の水戸転入であり、常磐無線対応ではない。
床下は、機関がカミンズ製DMF14HZへ換装され、油タンクも角型のものに更新されている。また水戸時代に磐越東線運用に就くため、複線スノープロウが取り付けられている。


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