キハ58 123




末期まで旧秋田色を纏ったキハ58

1962年6月8日新潟鉄工製の3次車で、昭和36年度利用債で鹿児島機関区へ配置された。同一ロット120〜123全車が鹿児島へ配置されている。鹿児島へは新設される急行「フェニックス」用として配置された。その後も鹿児島本線・日豊本線の幹線急行で使用されたが、1968年度に車両交換で都城へ転属、急行「えびの」を中心に活躍するようになった。1970年夏には都城にキハ65が配置され、これに伴い冷房化された。「55-10改正」で日豊本線全線電化と共に急行列車の整理が行われ当車は余剰となり、山形地区の冷房化促進のため1980年10月4日付で山形機関区へ転属した。山形では急行「もがみ」「月山」等で使用され、東北新幹線開業後も引き続き支線急行で使用された。国鉄末期のダイヤ改正で特急格上げ、減便、減車によりキハ58は余剰となり、廃車が続出したが当車は幸いにも生き残り、そのままJR東日本に継承された。JR化後は唯一残った急行「月山」を中心に使用されたが、1989年頃から急行型気動車の転配が多くなり、当車は1989年11月9日付で秋田へ転出し、主に男鹿線や田沢湖線の普通列車で使用されるようになった。秋田転出後、1991年3月度には機関換装され、新潟鉄工製DMF13HZに更新された。また1992年頃からは新たに制定された「秋田色」へ変更された。秋田地区では1994年12月3日のダイヤ改正で弘前担当の花輪線運用が廃止され快速「八幡平」が盛岡担当となったり、1996年3月30日のダイヤ改正で田沢湖線が秋田新幹線への改築工事のため運休となり秋田担当の田沢湖線運用がなくなるなど、秋田におけるキハ58の運用は縮小の一途を辿っていたが、当車は冷房車であることから予備車や波動用として長く使用された。しかしながら、1990年代後半にはキハ40系も余剰気味となる時代となり、2000年8月1日付で老朽化のため廃車となった。

前面は、JR化後の1994年3月30日付土崎工場で前面補強されているが、現車を見る限り、施工前後で正面パーツの位置等に変化はない。正面窓上の通風口は、晩年のJR東日本車には珍しく、左右とも残存している。水切りは撤去されていない。デフロスタは、運転席側のみに付いている。ワイパーはWP50に改造されているが、正面窓下の手すり位置は原型のままで、秋田地区標準の形態である。テールライトは原型の内ばめ式のままである。タイフォンカバーは、東北地区へ転入した車に見られた、回転蓋式となっている。放送用ジャンパ線受は、秋田地区標準位置の、テールライトの左上付近に移設されている。制御用ジャンパ受栓の位置は、タイフォンの左右に寄っており、九州の標準形態ではない。
側面では、車体中央付近にあった機関冷却水口は、他の機関更新車同様埋められている。晩年の東北地区配置車共通で、車体中央付近側窓下にサボ挿しが追加されている。便所付近には、汚物処理装置取り付け準備工事がなされ、同装置の点検蓋が設置されている。
屋根上は、標準的な冷房車の形態で特筆すべき点はない。
床下では、エンジンが新潟鉄工製DMF13HZへ交換済み、その際に機関予熱器は撤去されている。スノープロウは単線用を取り付けている。油タンクは角型のものに更新されている。


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