キハ58 125



1962年4月16日日本車輌製の3次車で、昭和36年度第2次債務で郡山機関区へ配置された。同一ロット124〜127全車が郡山へ配置されている。郡山では1962年6月10日より新設された急行「ばんだい」に使用された。1964年には郡山へ長大編成対応の400番台が増備された関係で捻出され、同一ロット124〜127全車が転出することになり、当車は夏季輸送対応で7月1日付で千葉へ転出後、11月8日付で美濃太田へ転出した。美濃太田では高山本線の急行「のりくら」を中心に使用されたが、1965年7月以降中央東線の全線電化に伴い400番台車が松本より転入し、当車は7月1日付で夏季輸送用に千葉へ転出し、夏季輸送後9月27日付で高松へ転出した。高松では四国全域の急行列車で使用され、1970年4月には冷房化された。その後も長く四国全域で使用されたが、1978年には長野から高松に大量のキハ57が転入し、これと玉突きで高松から徳島へ車両の移動が行われ、その際に1978年10月12日付で徳島へ移動した。徳島では高徳本線の急行「阿波」「むろと」等で使用された。1980年に、急行の減車により捻出されたキハ58が高松から徳島へ転入した際に若番車は徳島から他区へ転出したが、125以降の車両は引き続き徳島に残留した。そしてそのままJR四国へ継承された。JR化後は1988年4月の瀬戸大橋開業に伴うダイヤ改正で急行の大半が特急に格上げされた事から次第にローカル輸送に転じることになり、また1988年10月19日で四国色へ変更された。1989年3月には通勤化改造車を巡る転配が行われ、原形車内の当車は1989年3月14日付で松山へ転出した。松山では予讃線・土讃線・内子線等の普通列車で活躍したが、1992年3月改正で、内装による車両の入れ替えが行われ、当車は3月14日付で再び徳島へ転出した。しかし間もなく1992年7月23日には予讃本線の一部電化により車両の転配が行われ当車は余剰となり、1992年9月1日付で廃車となった。

前面は、四国タイプの前面補強が施工されている。ワイパーは強化型のWP50へ改造されているが運転席窓下の手すりは手を加えられていない、四国標準の形態。制御用KE53ジャンパ受栓の位置等も、四国標準の形態。放送用ジャンパ受栓は、四国若番車標準の、助手席側タイフォン右上に足掛けと一体化した栓受を使用している。タイフォンカバーは、原形のスリット状のままである。
側面はほぼ原形である。汚物処理タンクが設置されているので、便所部側面に点検蓋のようなものが設けられている。運転席側窓バランサー点検蓋は、四国標準の、台枠に近い部分に横長の開口部が設けられている。乗降扉の点検蓋は、後期車と同じ横長のものに改造されており、四国の標準形態であった。
屋根上は冷房化以降手が加えられていない。
床下は、汚物処理装置が設置されている以外はほぼ原形である。

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