キハ58 130



1962年4月21日日本車輌製の3次車で、昭和36年度第2次債務で高崎機関区へ配置された。同一ロット128〜131全車が高崎へ配置されている。高崎では両毛線経由の急行「わたらせ」や長野原線に直通する急行「草津」で使用されたが、1968年の両毛線電化で高崎の急行型気動車配置が無くなり、当車は関西地区の急行増発のため、兄弟の129〜131揃って1968年10月15日付で向日町運転所へ転出した。向日町では急行「志摩」「紀ノ川」等の京都発着急行に使用された。1973年には岡山のキハ58 90との間で車両交換があり、当車は1973年9月21日付で岡山へ転出した。岡山では急行「みまさか」の他「砂丘」等で活躍した。1970年代中盤には冷房化されている。国鉄末期の「60-3改正」では急行「みまさか」の縮小が行われ、当車を始め若番車は軒並み余剰となるが、当車は運良く豊岡地区の老朽車捻出のため、1986年3月に豊岡へ転出した。当時は1985年3月に和歌山より状態の良い400番台、1100番台が転入し若番車は淘汰が進んでおり、「61-11改正」で福知山線電化された際には後期車が主に残存したが、当車は運良く残留組となり、そのままJR西日本へ継承された。JR化後も引き続き豊岡で急行「丹後」「但馬」に使用されたが、1990年3月の山陰本線園部電化の際に福知山で余剰車が発生し、これに伴う転配を受け当車は客車列車の気動車化のため1990年3月8日付で米子へ転出した。米子では主に快速や普通列車で使用されたが、普通列車のワンマン化・短編成化が進み余剰となり、1993年12月10日付で廃車となった。

外観は、岡山時代の特徴を色濃く残している。
前面は、岡山時代に高砂工場で関西タイプの前面補強が施工されている。ワイパーは強化型のWP50へ改造されており、運転室窓下の手すりが短くなっているなど、関西標準の形態。制御用KE53ジャンパ受栓の位置は、左右離れた位置である。放送ジャンパ受栓は、関西地区特有のタイフォンとテールライトの間付近に移設されている。タイフォンカバーは、原形のスリット状のままである。テールライトは、外ばめ式に改造されている。
側面はほぼ原形である。
屋根上は冷房車の標準形態である。
床下もほぼ原形である。


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