キハ58 169



1962年5月18日富士重工製の3次車で、昭和36年度2次債務で新潟機関区へ配置された。同一ロット167〜169のうち、169のみが新潟へ配置されている。新潟では急行「赤倉」等幹線急行で活躍したが、翌1963年末より、長大編成用400番台が新潟に大量投入され、0番台車の多くは早くも新潟を離れることとなる。当車は次ロットの169〜171とともに山陰へ移動、1964年4月13日付けで米子機関区へ転出した。米子では急行「だいせん」をはじめとして山陰本線・伯備線の急行列車で活躍した。1965年には米子へ長大編成対応の400番台が新製投入され、前ロットの165〜167と共に転出することになり、1965年12月26日付けで高松へ転出した。高松では四国全域の急行列車で使用され、1967年7月29日には早々に簡易冷房化改造が施工された。その後は1970年3月18日付で量産冷房化改造された。1975年の特急「しなの」完全電車化の際にキハ181系が四国へ転入し急行の特急格上げが行われ、その際に捻出され当車は1975年3月16日付で和歌山へ転出した。和歌山では急行「きのくに」を始め紀勢本線の急行で使用され、同一ロットで和歌山に新製配置された168と新製以来の再会となった。しかし早くも1978年10月の紀勢西線電化により捻出され、1978年9月29日付で鳥取へ転出した。鳥取では急行「白兎」「但馬」「砂丘」等山陰本線及び横断路線の急行で使用された。国鉄末期の「59-2改正」では急行の編成見直し等により捻出され、1984年2月3日付けで亀山へ転出した。亀山では使い勝手の悪いキハ35系に代わり関西本線をメインとして普通列車で活躍した。「60-3改正」では紀勢本線電化により和歌山から多くの状態の良いキハ58系が亀山へ転入し、それまで亀山にいた若番車の多くは淘汰されたが当車は幸運にも生き残り、そのままJR西日本へ継承された。1987年7月13日の信楽線転換後は亀山のキハ58は余剰気味であったが、1988年9月29日付で客車列車置き換えのため福知山運転所へ転出、山陰本線京都口の普通列車で使用開始した。この時期には山陰本線保津峡付近の新線開通に合わせ大量のキハ58系が福知山に集まってきていた。しかし福知山での活躍も束の間、1990年3月には山陰本線園部電化開業し、1988年9月に福知山に集結したキハ58系は早くも大量に余剰となった。当車は余剰車となり1990年3月31日付で廃車となった。

外観は、どの地区の特徴もあまり見られない。
前面は、前面補強が施工されておらず、すっきりした顔立ちである。ワイパーも原形のWP35のままで、正面窓下の手すりも原形である。制御用KE53ジャンパ受栓の位置は、四国標準のタイフォン下部に寄り添う位置へ設置されている。放送用ジャンパ受栓は、ステップ下部に台座つきで設置されている。タイフォンカバーは、シャッター式に改造されている。種別表示幕の横に、列車無線アンテナを挿す筒が設置されており、これは亀山配置車の特徴である
側面はほぼ原形であるが、乗降扉の点検蓋は後期車と同じ横長のものに改造されているほか、乗降扉下隅に後期車同様丸窓が設けられている。
屋根上は冷房化以降手が加えられていない。
床下は、ほぼ原形である。


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