キハ58 183



1962年8月2日新潟鐵工製の3次車で、昭和36年度第3次債務で米子機関区へ配置された。同一ロット180〜183全車が米子に配置されている。当車と182は米子へ新製配置後間もなく宮原へ転属している。宮原では新設された急行「越前」で使用開始し、その後急行「ちくま」「丹波」等に運用を拡大していった。1964年に長大編成対応の400番台が宮原に新製されるに伴い、当車は早くも1964年度中に梅小路へ転属した。梅小路では急行「志摩」「くまの」「しらはま」「はまゆう」等京都発着の紀勢本線方面の運用で活躍したが、1971年度末で梅小路区の運用が向日町へ統合され当車も向日町へ転属し、その後向日町へキハ65が投入されたことから1972年7月1日付で米子へ転属した。米子では急行「だいせん」「さんべ」をはじめとして山陰本線・伯備線の急行列車で活躍し1970年代中盤には冷房化されたが、1974年度末には需給の関係で隣の鳥取へ転属した。鳥取では急行「白兎」「但馬」「砂丘」等山陰本線及び横断路線の急行で使用された。国鉄末期の「59-2改正」では急行の編成見直し等により捻出され、1984年2月3日付けで亀山へ転出した。亀山では使い勝手の悪いキハ35系に代わり関西本線・信楽線・片町線・紀勢本線等の普通列車で活躍するようになった。しかし「60-3改正」で和歌山から、「61-11改正」で福知山・山陰地区から後期車が転入すると余剰となり、1987年2月10日付で廃車となった。

前面は、鳥取時代に後藤工場タイプの前面補強が施工されている。ワイパーはWP50へ更新され、運転台側正面窓下手すりは後藤工場標準のやや短い手すりに交換されている。制御ジャンパ受栓及びステップの位置は、後藤工場標準の位置にある。放送ジャンパ受栓は、ステップ下部に台座付きで設置されている。タイフォンカバーは非常に特殊で当車のみに見られる特殊な形状のスリット式カバーを取り付けている。テールライトは、原形の内ばめ式のままである。
側面は、運転席側窓バランサー点検蓋が後年開けられている。
屋根上は標準的な冷房車の形態であり特筆すべき点はない。
床下もほぼ原形のままである。


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