キハ58 184



1962年8月11日新潟鉄工製の3次車で、昭和36年度3次債務で高崎機関区へ配置された。同一ロット184〜187のうち、184・185が高崎へ配置されている。高崎では両毛線経由の急行「わたらせ」や長野原線に直通する急行「草津」で使用されたが、1968年の両毛線電化で高崎の急行型気動車配置が無くなり、当車は山陰地区の急行増発のため、1968年10月15日付で米子へ転出した。米子では急行「だいせん」を中心に山陰本線で活躍し、1970年代中盤に冷房化されたが、1972年7月1日に向日町との間で車両交換があり、182・183が向日町から米子へ転出し、184が米子から向日町へ転出した。向日町では急行「志摩」「はまゆう」「しらはま」で使用されたが、「55-10改正」では需給の関係から1980年10月7日付で隣の宮原へ転出した。宮原では急行「みまさか」「丹波」「たかやま」等関西から北部へ向かう急行で使用された。「59-2改正」ではさらに急行の減便減車により捻出され、汚物処理装置を取り付けていることから、同装置を使用する地区の若番車を置き換えることになり、1984年2月1日付で広島へ転出した。広島では芸備線系統の急行「ちどり」「たいしゃく」で使用され、そのままJR西日本へ継承された。JR化直後の1988年3月には芸備線急行の減車が行われ、3両基本編成から2両基本編成へ変更される。これにより当車は余剰となり、1988年9月28日付で福知山へ転出した。福知山への転出は、当時山陰本線京都口で残っていた50系客車列車を気動車化し、運転効率を上げることと冷房化率を上げるのが目的であった。しかし1990年3月には山陰本線京都口が電化されることになり福知山のキハ58系は大量に余剰となるが、当車は引き続き福知山に残り急行「丹後」「但馬」に使用された。しかし急行の減車もあり1993年3月31日付で廃車となった。

外観は関西時代の形態を色濃く残している。
前面は、前面補強は向日町・宮原時代由来の関西地区タイプである。運転室側にデフロスタが取り付けられている。ワイパーは強化型のWP50へ更新されており、運転席窓下の手すりは、これを避けるべく短くなっているのは関西地区特有の形状である。タイフォンカバーは原形のスリット式である。テールライトは内ばめから、外ばめに改造されており、宮原・向日町ではよく見られた形態である。制御ジャンパ受栓は、初期冷房車の位置である、タイフォン下部へ寄り添う位置    へ移設されている。放送ジャンパ受栓は、関西地区特有のタイフォンとテールライトの間へ移設されている。
側面はほぼ原形であるが、汚物処理タンクが設置されているので、便所部側面に点検蓋のようなものが設けられている。運転席側窓バランサー点検蓋が開けられ、ビス止めされている。
屋根上は冷房車の標準形態で特に目立つ点はない。
床下もほぼ原形であるが、後位側に汚物処理装置が取り付けられている。


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