キハ58 204



1962年10月6日日本車輌製の4次車で、昭和37年度本予算で新潟機関区へ配置された。同一ロット202〜205全車が新潟へ配置されているが早くから兄弟離れ離れであった。新潟では急行「赤倉」等幹線急行で活躍した。1971年には中央西線急行の運用持ち替えで兄弟揃って新潟を去ることになり、4月26日付で長野へ移動した。同時期に202は水戸、203は長野、205は小牛田へ移動している。長野では急行「きそ」「ちくま」「越後」等の幹線急行に使用され、1972年に冷房化される。しかし1973年には中央西線の電化により長野を離れることになり、7月12日付で米子へ移動した。兄弟の203は同日付で豊岡へ移動しており、兄弟離れ離れとなった。米子では山陰本線・伯備線の急行で使用されたが、1976年には伯備線急行関連で岡山と運用の持ち替えがあり、当車は1976年3月1日付で岡山気動車区へ移動した。岡山では急行「伯耆」「みまさか」「砂丘」等で使用されたが、「60-3改正」で岡山担当の急行「みまさか」が廃止され、当車はキハ57を駆逐すべく1985年3月27日付で中込機関区へ転出した。以後、小海線の普通列車専属となり、冷房を使用することも無くなった。中込配置のままJRに継承され、その際に携帯式無線アンテナを挿すための筒が方向幕横に取り付けられた。この装備はキハ58ではJR西日本亀山運転区、JR東海伊勢運転区とJR東日本中込運転区のみの装備であった。JR化後は1991年に小海線にキハ110系が投入され、非冷房車は軒並み廃車されたが冷房車は活用されることになり、当車は1992年3月24日付で新津運輸区へ転出した。1971年以来約21年ぶりの新潟地区への帰還であった。転出に際し、機関のカミンズエンジンへの換装が行われた。新津では冷房車であることから快速「あがの」「べにばな」を中心に普通・快速列車で運用された。1995年に東北本線八戸地区で気動車列車の701系電車への置き換えが行われ、
捻出されたキハ40系が新津へ転入。玉突きで車齢の高いキハ58が淘汰され、機関換装後わずか3年の、1995年11月1日付で廃車となった。

外観は、塗装以外は原形をよく保っている。
前面は、岡山時代に高砂工場で関西タイプの前面補強が施工されている。ワイパーは原形のWP35のままであり、運転室窓下の手すりは原形であるなど、岡山では国鉄末期までよく見られた形態。制御用KE53ジャンパ受栓の位置等も、関西標準の形態。放送ジャンパ受栓は、関西地区特有のテールライトとタイフォンの間に移設されている。タイフォンカバーは、原形のスリット状のままである。正面窓上の通風口は、助手席側のみ撤去されており、1990年代JR東日本の標準スタイルである。新潟色であるが、関西の痕跡が色濃く残った形態である。
側面は、中込時代に、車両中心部付近窓間下部にサボ挿しが増設されている。また、機関換装時に、機関冷却水注水口が埋められているのは、晩年のJR東日本車の特徴であった。
屋根上は冷房車の一般的な形状で、特に目立った特徴はない。
床下では、機関はカミンズ製のDMF14HZに換装しており、機関予熱器が撤去されている。油タンクは原形のままである。
妻面は、放送ジャンパ受栓が関西特有の位置へ移設されているのが目立つ。


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