キハ58 208



九州最後の普通列車用キハ58系として活躍したうちの1両。

1962年9月26日新潟鐵工製の4次車で、昭和37年度本予算で都城機関区へ配置された。同一ロット207〜210のうち207・208が同日に都城へ配置されている。都城では急行「えびの」等肥薩線急行で活躍したが、1962年度中に、大分機関区へ転出した。その後も九州各地を転々とし、1964年度には竹下へ転出した。竹下では主に長崎本線の急行に使用され、急行「いなさ・弓張」で活躍した。1975年9月1日付けで直方へ転出するが、当時の直方は非冷房の800番台の配置が主で、当車も筑豊地区でのローカル運用に甘んずるようになった。1983年度には配置換えで、1984年3月31日付けで竹下へ戻っており、引き続き香椎・篠栗線等の北九州ローカル線で使用された。国鉄最後の「61-11」改正では北九州地区のローカル線廃止等の影響で長崎へ転出となり、長崎の非冷房キハ20系や35系に代わって大村線・松浦線等で使用されることになった。ここ長崎で、一旦離れ離れとなった兄弟の207と再会し、そのままJR化を迎えた。JR化後は松浦線の廃止による所要減により1987年度中に再び竹下へ戻る。竹下では1988年9月30日付で近郊化及び九州色化され、以降は専らローカル輸送で使用されることとなる。1991年3月14日には竹下気動車区は廃止され直方に統合されるが、引き続き博多運用として九州北部で使用された。1998年度末には日田彦山線のワンマン化のため当車は1月26日付でワンマン化された。ワンマン化も束の間、1999年には九州内で仕様形式の変更・車両交換により、当車は鹿児島へ転出することになり、引き続きワンマン仕様車として肥薩・吉都・指宿枕崎線で使用された。当車は引き続き当面使用する車両となり、2001年1月17日付で汚物処理装置の取り付けが行われた。その後2006年6月〜7月にキハ220形が大分に新製配置されたのを機に車両の大幅な転配が行われ、鹿児島地区のキハ58系ワンマン車は捻出されたキハ40系に置き換えられ用途廃止となり2008年1月8日付で廃車となった。

外観は、鋼体自体は原型をよく保っているが、九州特有の改造や特殊塗装により、原型からは随分雰囲気が変わっている。前述のとおり冷房化年月日は不明であるが、おそらく1970年度であると思われる。
前面は、国鉄末期の時点で長く使用する予定でなかったのか、あまり手を加えられていない。前面補強は未施工でのっぺりとした表情。ワイパーも原型のWP35のまま、拭き腕も1本タイプで、前面窓下の手すりもそのまま原型であり、非常にすっきりしている。制御用KE53ジャンパ受栓の位置等は、九州標準の形態であるが、ステップは左右とも撤去されている。放送用ジャンパ受栓は、JR九州化後の小倉工場標準である、助手席側テールライトの右へ移設されている。タイフォンカバーは、スリット状ながら、下部の形状が若干異なる、九州タイプを装備する。正面窓上の雨どいが撤去されており、鹿児島地区の標準スタイルである。また、鹿児島地区では降灰の関係上デフロスタを装備している。鹿児島地区ではフック式のヘッドマークステイを取り付けた車両が多いが、当車は九州北部での活躍が長く、ヘッドマークステイは取り付けられていない。以上から、非常にすっきりした面立ちである。
屋根上は通風器がすべて撤去されているのは九州共通の標準仕様である。また排気口が屋根より若干飛び出しているのも九州標準。水タンクは原型である。
側面はおおむね原型であるが、汚物処理タンクが設置されているので、便所部側面に点検蓋のようなものが設けられている。また、JR化後比較的初期より乗降ドア点検蓋が、キハ40系のようなユニット式に改造されている。近郊化の際に洗面所が撤去され、この部分の小窓が撤去されている。
床下では、前位側へスカートの取り付けが行われているのは九州の共通事項。機関は原型のDMH17Hエンジンを装備しているが、機関予熱器は撤去されている。また循環式汚物処理タンクを装備している。
妻面は、九州の近郊型特有の、仕切り扉付き。その関係でデッキにあった下降窓は埋められている。


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