キハ58 224



1962年11月30日日本車輌製の4次車で、昭和37年度民有債で多治見機関区へ配置された。同一ロット223〜225全車が多治見へ配置されている。多治見では中央本線の急行「きそ」や高山本線の「のりくら」で使用されたが、1965年に美濃太田機関区に気動車基地が建設された際に、美濃太田へ転出した。1973年には中央西線の電化及び高山〜北陸本線系統の循環急行の廃止により移動し、まず1972年度中に名古屋へ戻った後、1973年9月28日付で向日町運転所へ転属した。向日町では急行「紀ノ川」等で使用され、1970年代中盤に冷房化された。また1980年代には汚物処理装置の取り付けが行われた。しかし国鉄末期に急行「紀ノ川」が廃止されると余剰となり、汚物処理装置装備車の有効活用を図ることとなり、当車は広島の若番車を置き換えるため10月29日付で転属した。そしてそのままJR西日本に継承された。広島では陰陽連絡の急行「ちどり」をはじめ、芸備線の急行「たいしゃく」「みよし」で使用された。JR化直後の1988年9月には芸備線急行の減車が行われ、3両基本編成から2両基本編成へ変更される。これにより当車は余剰となり、1988年9月28日付で447〜449と共に福知山へ転出した。福知山への転出は、当時山陰本線京都口で残っていた50系客車列車を気動車化し、運転効率を上げることと冷房化率を上げるのが目的であった。1990年3月には山陰本線京都口が電化されることになり福知山のキハ58系は大量に余剰となるが、当車は汚物処理装置付であることが買われ、関西地区の波動輸送列車を気動車化するため1990年3月10日付で447・448と共に向日町へ転出した。1996年3月には組織改正で向日町運転所は京都総合車両所と名称を変えたが、波動用中心の運用実態は同じであった。その後は団臨運用の減少と老朽化のため、1997年6月24日付で廃車となった。廃車後はタイ国鉄へ譲渡された。

前面は、前面補強は向日町時代由来の関西地区タイプである。正面窓上の通風口・水切りは原形のままである。運転室側にデフロスタが取り付けられている。ワイパーは強化型のWP50へ更新されており、運転席窓下の手すりは、これを避けるべく短くなっているのは関西地区特有の形状である。タイフォンカバーは原形のスリットカバーのままである。テールライトは内ばめから、外ばめに改造されており、宮原・向日町ではよく見られた形態である。制御ジャンパ受栓は、左右離れた位置へ設置されている。放送ジャンパ受栓は、関西地区特有の位置に移設されている。前面は概ね向日町時代の特徴を色濃く残している。
側面では、0番台車であるが乗降ドア隅の丸穴が開けられ、Hゴムが黒くなったものの残存している。乗務員室窓バランサー点検蓋は、後年追設され鉄板で塞がれている。汚物処理タンクが設置されているので、便所部側面に点検蓋のようなものが設けられている。広島配置は1年半程であり、広島特有の側面サボ挿しは取り付けられていない。
屋根上は冷房車の標準形態で特に目立つ点はない。
床下では、後位側に、汚物処理タンクが設置されている他はほぼ原形である。


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