キハ58 225



1962年11月30日日本車輌製の4次車で、昭和37年度民有債で多治見機関区へ配置された。同一ロット223〜225全車が多治見へ配置されている。多治見では中央本線の急行「きそ」や高山本線の「のりくら」で使用されたが、1966年に美濃太田機関区の気動車基地が拡張された際に、美濃太田へ転出した。美濃太田では引き続き急行「のりくら」「きそ」の他、急行「大社」や「紀州」でも使用されたが、1974年に長野との間で冷房キハ57と車両交換があり、当車は1974年12月7日付で長野へ転出した。しかし束の間「50-3改正」を控えた車両転配で余剰となり、キハ55置き換えで1975年3月2日付で七尾へ転出した。七尾では急行「能登路」専属で使用されたが、「53‐10改正」で急行「ちくま」「ゆのくに」「越後」が廃止になり金沢・長野の冷房車が大量に移動し、七尾へも冷房車が転入したことから非冷房の当車は捻出され、1978年9月30日付で新潟へ転出した。新潟へは里帰りとなりキハ55に代わり普通列車の他、他のキハ58に混じり急行でも使用された。その後「55-10改正」で各地で急行の削減が行われるとキハ58冷房車が大量に新潟へ転入し、当車は玉突きで1981年1月24日付で竹下へ転属した。一旦完全冷房化を達成した九州へ転出であったが、非冷房の当車はキハ55系置き換え用で主に博多近郊の普通列車で使用された。しかし国鉄末期には急行の減車等により冷房車が普通列車にも使用されるようになり、また地方交通線の廃止も進んだことから余剰となり、1986年12月1日付で廃車となった。

前面は、七尾時代に松任工場で前面補強が施工されているが、補強板の境界線が滑らかに仕上げられており目立たない。ワイパーは強化型のWP50へ改造され、それに伴い運転席窓下の手すりが撤去されており、金沢標準の形態である。制御用KE53ジャンパ受栓は非冷房車ながらタイフォン下部で左右離れた位置へ移設されている。放送ジャンパ受栓は、タイフォン横にステップ一体型で設けられてる。タイフォンカバーはスリット式カバーである。テールライトは原形の内ばめ式のままである。
側面は、ほぼ原形のままであるが、新潟タイプの運転室側窓バランサー点検蓋が後年設けられている。
屋根上は、後位側水タンクが国鉄時代の金沢・新潟地区標準の平らなものに交換されている。
床下も原形のままである。


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