キハ58 230



1962年12月18日日本車輌製の4次車で、昭和37年度民有で鹿児島機関区へ配置された。同一ロット230〜232全車が鹿児島へ配置されている。鹿児島では急行「フェニックス」等の鹿児島本線・日豊本線系統の幹線急行に投入された。1965年に鹿児島に長大編成用車が新製されると捻出されるように兄弟そろって長崎へ転出した。長崎では急行「いなさ(後の出島)・弓張」等の長崎本線系統の急行で使用され、1970年代前半には冷房化されている。た。1971年にはキハ65の投入による車両需給の調整から当車は竹下へ移動し、引き続き長崎本線の急行を中心に使用された。1976年の長崎本線電化後も急行は気動車のまま残ったが、「57-11改正」で捻出された485系により特急格上げされる事になり、長崎の多くの仲間は余剰となりキハ55系に代わり普通列車用となった。しかし「59-2改正」では715系の投入等により普通列車の電車化が進み、当車を含む230・232〜234はキハ35・55系の置き換えのため1984年2月3日付で遠く伊勢運転区へ転出し、紀勢本線・参宮線・名松線で使用されるようになった。伊勢へは直方からも非冷房キハ58が転入し、伊勢にはキハ28 2000番台がいないことから冷房は使用できなくなった。しかし「60-3改正」で急行「きのくに」が全廃され、同じ天王寺局から状態の良いキハ58・28が大量に捻出され亀山・伊勢へ転出し、当車を含む1982年に伊勢へ転入したグループは早くも保留車となってしまった。その後は保留車のまま在籍したが、「61-11改正」で伊勢区がJR東海の管轄となり紀勢東線の運用が同区の担当となることが決まり、福知山・米子局や亀山から状態の良いキハ58系が大量に転入すると当車は復活することなく1987年3月31日付で廃車となった。

前面は、長崎時代に小倉工場で九州タイプの前面補強が施工されている。ワイパーは原形のWP35のままで、正面窓下手すりも原形のままである。ステップの位置や制御用KE53ジャンパ受栓の位置等は、九州標準の形態である。放送用ジャンパ受栓は、ステップ一体型であるが取り付け位置が低く、車体裾の赤帯の中にある。タイフォンカバーは、原形のスリット状である。テールライトは原形の内ばめ式のままである。
側面は概ね原形であるが、運転席窓バランサー点検蓋が後天的に開けられ蓋がビス止めされている。
屋根上は、冷房化後手を加えられておらず標準的な冷房車の形態である。
床下機器はほぼ原形である。


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