キハ58 234



1962年12月22日日本車輌製の4次車で、昭和37年度民有で大分機関区へ配置された。同一ロット233〜235全車が大分へ配置されている。大分へは日豊本線のほか久大本線・豊肥本線の急行列車で使用された。1964年には400番台の増備により捻出され竹下気動車区へ転出した。竹下では鹿児島本線・長崎本線の翌1965年には運用移管及び車両交換で長崎へ転出し、長崎本線急行で主に使用されるようになった。以降は長崎で長く活躍し、1969年には早くも冷房化され急行「いなさ(後の出島)・弓張」で活躍した。1976年の長崎本線電化後も急行は気動車のまま残ったが、「57-11改正」で捻出された485系により特急格上げされる事になり、長崎の多くの仲間は余剰となりキハ55系に代わり普通列車用となった。しかし「59-2改正」では715系の投入等により普通列車の電車化が進み、当車を含む230・232〜234はキハ35・55系の置き換えのため遠く伊勢運転区へ転出し、紀勢本線・参宮線・名松線で使用されるようになった。伊勢へは直方からも非冷房キハ58が転入し、伊勢にはキハ28 2000番台がいないことから冷房は使用できなくなった。「60-3改正」で急行「きのくに」が全廃され、同じ天王寺局から状態の良いキハ58・28が大量に捻出され亀山・伊勢へ転出し、当車を含む1982年に伊勢へ転入したグループは早くも保留車となってしまった。多くは伊勢配置のまま廃車もしくは保留車残ったが、当車は状態が良かったのか引き続き使用されることになり、1986年3月3日付で亀山へ転出し、元急行「きのくに」グループとともに関西本線・紀勢本線・参宮線などで活躍した。国鉄最後の「61-11改正」時にはJRへ継承される車両となり、JR東海の管轄する紀勢本線で使用されることになり、1986年10月28日付で伊勢へ転出し、そのままJR東海に継承された。他の長崎転入組は全て廃車となった中幸運な車両であるとともに、JR東海へ継承された中で唯一の九州転入組であった。JR化後も引き続き紀勢本線を中心に活躍したが、1989年のキハ11投入により早くも余剰となる。他の伊勢区の初期車は1989年には廃車となるが、当車は予備車として残され、1989年3月4日付けで美濃太田へ転出した。翌1990年3月10日には名古屋へ転出し、新設された快速「みえ」の増結や武豊線の普通列車で活躍したが、1992年10月に武豊線のキハ48化が行われることになり、美濃太田から転入したキハ48と入れ替わりに、1992年10月12日付で美濃太田へ転出した。その後は高山本線・太多線で使用されたが、1993年のキハ75投入により状態の良いキハ58との入れ替えが行われ、当車は1994年12月27日付で廃車となった。

外観は、名古屋地区の特徴が薄く、九州出身であることを物語る。
前面は、九州タイプの前面補強が施工されている。ワイパーは原形のWP35のままで、正面窓下手すりも原形のままである。ステップの位置や制御用KE53ジャンパ受栓の位置等は、九州標準の形態である。放送用ジャンパ受栓は、伊勢転入後に名古屋地区標準のタイフォン脇ステップ下へ設置されている。タイフォンカバーは、原形のスリット状である。テールライトは原形の内ばめ式のままである。名古屋地区へ転入後、運転席側にデフロスタが取り付けられている。なお当車は伊勢時代に種別表示幕の横に携帯式列車無線アンテナ挿しが設置されており、JR化初期の伊勢・亀山・中込配置経歴車の特徴である。
側面は概ね原形であるが、運転席窓バランサー点検蓋が後天的に開けられ蓋がビス止めされている。JRマークはこの時代のJR東海車はオレンジ色のものが貼り付けられている。
屋根上は、冷房化後手を加えられておらず標準的な冷房車の形態である。
床下機器はほぼ原形である。


キハ58イラストのページへ戻る

キハ58系のページへ戻る

ホームへ戻る