キハ58 237



キハ58型で千葉ヘッドマークステイを付けていた稀有な車両。

1962年10月5日新潟鉄工製の4次車で、昭和37年度民有債で松本機関区へ配置された。同一ロット236〜239全車が松本へ配置された。松本では急行「アルプス」等中央東線急行で活躍した。中央東線では長大編成を組み活躍したが、1963年には長大編成対応の400番台が一挙に投入され松本配置の基本番台は早くも追われる立場となってしまい、1963年8月頃に長野へ転出した。長野では中央西線の急行で使用され、「きそ」等で活躍した。1966年夏季には、山岳輸送のためか一時新潟へ応援に駆り出され、6月4日付で新潟へ転出し、9月27日付で長野へ戻っている。翌年1967年には長野に長大編成対応キハ58が投入された影響からか、当車は同ロット兄弟と共に金沢へ移動した。金沢では北陸本線〜七尾線直通急行を中心に使用された。金沢時代の1971年には夏季輸送で房総地区へ応援に行くことになり、兄弟の238と共にシーズン前に千葉へ転出し、シーズン後の8月25日付で金沢へ戻っている。そして1970年代中盤には冷房化されている。「53-10改正」で金沢担当の急行「ゆのくに」が電車化されることになり、当車は急行「能登路」のキハ55系置き換えのため1978年10月2日付で七尾へ転出している。その後「55-10改正」では敦賀担当の急行「わかさ」「はしだて」の冷房化が行われることになり、七尾から当車が1980年10月15日付で敦賀へ転出した。この敦賀が安住の地となり、そのままJR西日本に継承された。JR化後は普通列車運用と急行運用が分けられたが、若番車が急行に充当され、当車も急行用となった。その後は大きな変化は無く1999年10月の小浜線急行廃止まで使用され、急行廃止と共に2000年3月31日付で廃車となった。

前面は、金沢タイプの前面補強が施工されているが、補強板の境界線が滑らかに仕上げられており目立たない。ワイパーは強化型のWP50へ改造され、それに伴い運転席窓下の手すりが撤去されており、金沢標準の形態である。制御用KE53ジャンパ受栓は離れた位置に設置されている。放送用ジャンパ受栓は、ステップ下部に設置されている。タイフォンカバーは、金沢時代にシャッター付きに改造されている。テールライトは内ばめ式のままである。正面窓上の通風口と水切りが撤去され、末期の金沢地区標準のスタイルである。冒頭で述べたが、千葉貸し出し時に貫通扉に千葉タイプのヘッドマークステイが取り付けられており、2エンジンのキハ58では極めて珍しい装備であった。
側面は、運転室窓のバランサー点検蓋が追設されており、塞ぎ板がボルト止めされている。
屋根上は、通風器の配置・形状は標準冷房車の形態である。水タンクは金沢地区標準の、角ばったものに更新されている。
床下は概ね原形であるが、1990年代後半より台車等がグレーに塗装されている。

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