キハ58 312



1963年2月11日日本車両製の4次車で、昭和37年度利用債で長野機関区へ配置された。同一ロット308〜312の一挙5両が同日に長野へ配置されている。長野では中央西線の急行「きそ」等を中心に使用された。1969年には、中央東線松本運転所へキハ65が投入された関係で松本の長大編成対応キハ58が5両長野へ転入し、玉突きで同ロットの308〜312が美濃太田及び名古屋へ転出した。当車は名古屋配置となった。名古屋では急行「きそ」「大社」「紀州」「のりくら」等、広範囲に使用され、幹線急行が多いことから1970年代には冷房化された。1973年の中央西線全線電化で当車は余剰となり、1973年7月5日付で和歌山機関区へ転出し、紀勢本線の急行「きのくに」を中心に使用されるようになった。「55-10改正」では381系増備により急行「きのくに」3往復が特急「くろしお」に格上げされ、この際に余剰となる。当車は山陰地区で非冷房のまま残っていたキハ58を駆逐すべく、1980年10月15日付で米子機関区へ転出した。この時、和歌山から219・312・472が、宮原から463が米子へ転入し、米子から非冷房の643・1040・1124・1130が捻出され亀山及び美濃太田に転出している。米子では急行「だいせん」をはじめ山陰本線の急行で使用されていたが、「60-3改正」で山陰本線西部の急行が整理され、急行「さんべ」が小郡担当に移管されるのに伴い、1985年3月15日付で小郡機関区へ転出した。そしてそのままJR西日本へ継承された。小郡では間合い運用や編成両数が見直され余剰車が発生し、1988年9月28日付で客車列車置き換えのため福知山運転所へ転出、山陰本線京都口の普通列車で使用開始した。この時期には山陰本線保津峡付近の新線開通に合わせ大量のキハ58系が福知山に集まってきていた。しかし福知山での活躍も束の間、1990年3月には山陰本線園部電化開業し、1988年9月に福知山に集結したキハ58系は早くも大量に余剰が発生する。当車は幸運にも有効活用されることとになり、1990年3月8日付で米子運転所へ転出した。米子では50系客車を置き換え、主に普通列車で使用された。その後米子では徐々に運用を減らし余剰車が発生したが、当車は1993年9月20日付で津山鉄道部へ転出した。これは、津山のキハ58 1051を需要の高い向日町へ捻出するための措置であった。津山鉄道部はその後組織変更で岡山気動車区に戻るが、この岡山が最後の活躍の場となり、波動輸送や吉備線のローカル輸送に使用されたが、老朽化のため2003年1月8日付で廃車となった。

外観は、和歌山時代の形態を色濃く残している。
前面は、和歌山時代に高砂工場で関西タイプの前面補強が施工されている。正面窓上の通風口・水切りとも撤去されている。運転室側のデフロスタも撤去されている。ワイパーは強化型のWP50へ更新されており、運転席窓下の手すりは、これを避けるべく短くなっているのは関西地区特有の形状である。制御用KE53ジャンパ受栓は、左右離れた位置に設置され、ステップは原型の位置のままである。放送ジャンパ受栓は、関西地区特有の位置に移設されている。タイフォンカバーは、原形のスリット状のままである。テールライトは内ばめ式の取り付けビスを活かしたまま、外ばめ式に更新されている。
側面では、0番台車であるが乗降ドア隅の丸穴が付いており、Hゴムが黒くなったものの残存している。運転室窓バランサー点検蓋が新設されており、蓋は溶接止めされている。それ以外はほぼ原型である。
屋根上は標準的な冷房車の形態で特筆することはない。
床下機器はほぼ原形である。


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