キハ58 415




JR西日本の急行「能登路」専用車。

1963年6月15日新潟鉄工製の5-1次車で、昭和37年度2次債務で一挙40両松本運転区に新製配置された仲間(401〜440)の1両。同一ロットの415〜418全車が松本へ配置された。中央東線では2エンジン車による長大編成を組むことから早くから大量のキハ58型が投入されていたが、400番台の長大編成対応車が一挙に投入されると、それまで配置されていた0番台は各地に散るという同形式置き換えが早くから行われていた。中央東線ではもちろん急行「アルプス」をはじめとして、各支線区へ乗り入れる急行運用に使用された。しかしながら中央東線は1965年5月には電化され、早くも多くの仲間は他区へ転出してゆくが、当車は電化後も残った運用に引き続き使用された。1969年8月〜9月にかけて当区へキハ65形が投入されると当車は置き換えられ、長野運転所へ移動した。長野では主に急行「きそ」「ちくま」「越後」で使用されたが、早くも1970年度中には急行「きそ」の一部運用を名古屋第一機関区へ移管することから、当車も名古屋第一機関区へ転出した。名古屋では引き続き急行「きそ」や、「紀州」「かすが」「大社」等で広範囲に使用されたが、1978年10月改正で急行「きそ」が完全電車化されるのに伴い名古屋から転出し、1978年10月2日付けでお隣の美濃太田機関区へ移動した。美濃太田では高山本線の急行「のりくら」に使用された。国鉄末期の「61-11改正」で「のりくら」の格上げ及び越美南線の廃止から余剰となり、状態の良い当区のキハ58は初期車の多い七尾線へ移動することになり、1986年11月2日付けで七尾へ移動し、そのままJR西日本に継承された。七尾では近郊化改造されず急行専属車となり、1989年8月25日付で七尾急行色へ塗装変更された。1991年9月1日の七尾線電化後も引き続き能登路で使用されることになり、1991年6月28日付で、延命工事・汚物処理装置取り付けを行い、塗装も黄色ベースの能登路色となって活躍した。2001年3月改正で急行「能登路」は縮小され、当車は2001年3月6日付けで鳥取へ移動した。これは、鳥取では既に車両の置き換えが決定していたが、検査切れの近い車両に新たに検査を受けさせることは得策でないため、検査期限に余裕のある当車が期限切れの車両入れ替わるように使用されたものである。鳥取では黄色の「能登路色」のまま山陰本線で使用され、異彩を放っていた。当時山陰本線は急行色で統一されていたため、バラエティに富む反面、編成美が崩れ、痛し痒しであった。当車はピンチヒッターとして長く使用され、2003年4月21日付けで老朽廃車された。

外観は、出所不明の形態である。
前面は、郡山・秋田や幡生の一部に見られる、WP50台座部を切り欠いた前面補強が施工されているが、当時名古屋局配置であり、どこの施工か不明である。正面窓上の水切り・通風口は延命工事の際に撤去されている。延命工事施工時に熱線入りガラスに変更されたのでデフロスタは装備しない。ワイパーはWP50に更新され、それに伴い運転室窓下の手すりが下がっているのが当地区では珍しい。テールライトは、外ばめ式に更新されているが、内ばめ時代の取り付け座が残るタイプで、名古屋地区の標準形態である。タイフォンカバーは、助手席側に金沢地区特有の傘タイプのカバーが付いている。制御用ジャンパ受栓は左右離れた位置に付いている。ステップは原型の位置に加え、1次車のごとく、タイフォン上部にも追設されており、珍しい。放送用ジャンパ受栓は、名古屋でよく見られた、ステップの下に設置されている。
側面では、乗降ドア隅の丸穴が完全になくなっている。汚物処理タンクが設置されているので、便所部側面に点検蓋のようなものが設けられている。正面雨どいが撤去された関係で、乗務員室側窓上部に水切りが追加されている。運転室窓のバランサー点検蓋が追設されており、塞ぎ板が溶接されている。乗降ドアの戸袋点検蓋が、後期車のような横長のものに更新されている。
屋根上は延命時にすべての通風器が一旦ガラベンに交換されていたが、晩年断面5角形の箱型通風器に再度交換されている。水タンクは、金沢地区標準の角型台形のものに改造されている。
床下機器は1990年代以降の松任工場標準の、グレー台車になっている。油タンクは角型の新型に更新されている。後位側では、汚物処理タンクが設置されている。


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