キハ58 426



1963年6月5日東急車輌製の5-1次車で、昭和37年度2次債務で一挙40両松本運転区に新製配置された仲間(401〜440)の1両。同一ロットは423〜426の4両である。中央東線では2エンジン車による長大編成を組むことから早くから大量のキハ58型が投入されていたが、400番台の長大編成対応車が一挙に投入されると、それまで配置されていた0番台は各地に散るという同形式置き換えが早くから行われていた。中央東線ではもちろん急行「アルプス」をはじめとして、各支線区へ乗り入れる急行運用に使用された。しかしながら中央東線は1965年5月には電化され、早くも多くの仲間は他区へ転出してゆき、当車は1965年度中に長野へ転出した。長野では急行「きそ」をはじめ、中央西線・信越本線の急行で使用された。1968年4月に、キロ58冷房化のためキハ28 1500番台が2両新製され、これと入れ替わる形で1968年5月19日付で次ロットの427と共に岡山へ転出した。岡山ではキハ55系に混じり伯備線・津山線の急行で使用された。その後は1972年にキハ65が投入されたのを期に冷房化され、1982年の伯備線電化後は急行「砂丘」「みまさか」で主に使用された。「60−3改正」では急行「みまさか」の縮小により岡山区の運用が無くなるが、当車は引き続き岡山に残留し、急行「砂丘」や津山線の普通列車で使用され、そのままJR西日本に継承された。JR化後は、1988年3月のダイヤ改正で急行「砂丘」の運用が全て鳥取に移管され、当車は一旦保留車となるが、山陰本線京都口の50系客車列車の気動車化のため1988年9月28日付で福知山へ転出した。福知山では山陰本線の他、舞鶴線・宮津線等で使用され、1990年の山陰本線園部電化や宮津線廃止後も引き続き福知山で急行に使用された。しかし1992年頃より急行指定席車のアコモ改造や編成の見直しにより余剰となり、1993年3月31日に廃車となった。

前面は、岡山時代に高砂工場で関西タイプの前面補強が施工されている。正面窓上の通風口、水切りは原形である。運転室側にデフロスタが取り付けられている。ワイパーは原形のWP35のままで、正面窓下の手すりも原形のままである。制御用KE53ジャンパ受栓は、タイフォンの左右に離れて設置され、ステップは原形の位置のままである。放送ジャンパ受栓は、関西地区特有の位置に移設されている。タイフォンカバーは、原形のスリット状のままである。テールライトは内ばめ式の取り付けビスを活かしたまま、外ばめ式に更新されている。
側面では、乗降ドア隅の丸穴がHゴムが黒くなったものの残存している。運転室窓バランサー点検蓋が新設されており、蓋がボルト止めされている。それ以外はほぼ原形である。
屋根上は標準的な冷房車の形態で特筆すべき点は無い。
床下機器はほぼ原形である。


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