キハ58 432



1963年6月25日東急車輛製の5-1次車で、昭和37年度2次債務で一挙40両松本運転区に新製配置された仲間(401〜440)の1両。同一ロットの431〜434全車が松本へ配置された。中央東線では2エンジン車による長大編成を組むことから早くから大量のキハ58型が投入されていたが、400番台の長大編成対応車が一挙に投入されると、それまで配置されていた0番台は各地に散るという同形式置き換えが早くから行われていた。中央東線ではもちろん急行「アルプス」をはじめとして、各支線区へ乗り入れる急行運用に使用された。しかし、1965年5月20日には中央東線全線電化が完成し、早くも大量のキハ58が余剰となってしまった。この際431〜438揃って北陸地区へ転用されるようになり、1965年9月に金沢へ転出した。金沢では北陸本線〜七尾線の急行「ゆのくに」や急行「大社」の金沢編成、七尾線の急行「能登路」等で活躍するようになった。1975年には急行「能登路」運用を七尾へ一部移管することとなり、主に非冷房車が移動し当車も1975年3月10日付で七尾へ転出した。七尾では急行「能登路」専属で使用されたが、「53‐10改正」で急行「ちくま」「ゆのくに」「越後」が廃止になり金沢・長野の冷房車が大量に移動し、七尾へも冷房車が転入したことから非冷房の当車は捻出され、1978年10月18日付で盛岡へ転出した。盛岡では急行「陸中」を始め、山田・釜石線へ入る急行で主に使用されたが、「57-11改正」で急行が大幅削減された後は山田線・釜石線・山田線のローカル輸送で活躍した。そしてそのままJR東日本へ継承された。JR化後は1987年8月に盛岡色へ変更となり、引き続き普通列車を中心に活躍した。しかし1990年より始まったキハ110系投入により余剰となり、1993年9月1日付で廃車となった。

外観は金沢時代の名残は少なく、盛岡の影響が強いものになっている。
前面は、前面補強は国鉄時代の盛岡地区標準的な施工で、運転室側・助手席側ともにWP50対応の切り欠きがある。ワイパーは強化型のWP50に交換されており、それを避けるよう運転室窓下の手すり位置が大きく下がっているのは盛岡地区の特徴。正面窓上の通風口は左右とも残存している。放送用ジャンパ受栓は盛岡地区標準の、ステップ上部へ移設されている。テールライトは原形の内ばめ式のままである。正面窓上の小手すりに、盛岡・函館地区標準の警戒表示板がついている。
屋根上はほぼ原形のままである。
側面は、概ね原形であり、乗降ドア下部の埋められ存在しない。当地区では側面ほぼ中央部窓下にサボ差しが追設されている。
床下では、複線用スノープロウを付けている以外はほぼ原形である。


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