キハ58 435



1963年6月29日東急車両製の5-1次車で、昭和37年度第2次債務で松本運転所へ一挙40両配置された仲間(401〜440)の1両。同一ロット435〜437が同日に松本へ配置されている。キハ58系登場初期から松本には急行「アルプス」用として大量のキハ58形が配置されていたが、長大編成を組む「アルプス」では制御電圧やブレーキ圧の降下という問題が発生し、これに対応した新番台が1963年度上期に大量に新製されることとなった。1963年4月から7月までの間に401〜440の一挙40両が投入され、当車もその一員であった。しかし、1965年5月20日には中央東線全線電化が完成し、早くも大量のキハ58が余剰となってしまった。当車は431〜438共に金沢運転所へ転出し、北陸本線〜七尾線の急行「ゆのくに」等で活躍するようになった。1972年には名古屋第一機関区との間で車両の交換があり、10月14日付で美濃太田へ転出。美濃太田では急行「のりくら」をはじめ、主に高山本線の急行で使用されるようになった。しかし美濃太田での活躍は短く、1973年7月のダイヤ見直しで7月5日付で敦賀へ転出し、小浜線の急行に使用されるようになった。当時敦賀へは非冷房のキハ58系が集結したが、1980年には敦賀区は全車冷房車で揃えられることになり、非冷房の当車は1980年10月15日付で七尾へ転出し、キハ55に代わり普通列車で使用されるようになった。しかし七尾でも当時非冷房車は既に少数で、「57-11改正」では冷房車の転入で非冷房車は玉突きで余剰となり、大糸線のキハ55置き換えのため1982年11月17日付で富山へ転出した。富山ではキハ55系に代わり大糸線の普通列車で使用されるようになった。そしてそのままJR西日本へ継承された。JR化後は大糸線の他JR西日本へ移管された高山本線北部で活躍したが、第三セクター移管の決まっていた能登線との間で車両交換があり、七尾から高山線用に冷房キハ28・58が転入し、富山から非冷房の当車が1987年9月15日付で転出した。七尾では非冷房であることから普通列車をメインに使用されたが、1988年3月25日に能登線が「のと鉄道」へ移管され予定通り余剰となった。その後は1988年9月10日付で客車列車置き換えのため福知山運転所へ転出、山陰本線京都口の普通列車で使用開始した。この時期には山陰本線保津峡付近の新線開通に合わせ大量のキハ58系が福知山に集まってきていた。しかし1989年3月のダイヤ改正で急行の減車が行われた際に冷房車が捻出され、非冷房の当車は真っ先に1989年3月31日付で廃車となった。

外観は敦賀時代の特徴を色濃く残している。
前面は、金沢時代に前面補強がされているが、補強板の境目は分かりづらい。ワイパーは強化型のWP50へ改造されており、運転室窓下の手すりは撤去され、金沢局標準の形態である。タイフォンは金沢時代のスリット式のままで、東北地方では珍しい。放送用ジャンパ受栓は、後期車に準じたステップ一体型となっている。テールライトは、原形の内ばめ式のままである。
側面はほぼ原形である。
屋根上は、水タンクが初期の金沢地区標準の平らな形状のものに交換されている。
床下もほぼ原形である。


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