キハ58 441



1963年8月21日日本車輌製の5-2次車で、昭和38年度本予算で新潟運転所に新製配置された。同一ロット441〜444のうち、441・442が松本へ配置された。新潟では急行「赤倉」をはじめ、急行「越後」「羽越」「いいで」「うおの」等で使用された。1972年に、急行「越後」運用が長野持ちとなり、当車は442と共に1972年10月4日付で金沢運転所へ転出した。金沢では急行「大社」の金沢運用をはじめ急行「ゆのくに」「能登路」等で使用されたが、1975年には急行「能登路」運用を七尾へ一部移管することとなり、主に非冷房車が移動し当車も1975年3月10日付で七尾へ転出した。七尾では急行「能登路」専属で使用されたが、「53‐10改正」で急行「ちくま」「ゆのくに」「越後」が廃止になり金沢・長野の冷房車が大量に移動し、七尾へも冷房車が転入したことから非冷房の当車は捻出され、1978年10月18日付で山形へ転出しキハ55系を置き換えた。山形では急行「ざおう」「出羽」を始め幹線・支線区の急行に活躍したが、東北新幹線開業の「57‐11改正」で急行が全廃されたことから余剰となり、1983年1月13日付で富山へ転出、大糸線のキハ55を置き換えた。1978年以来早目の金沢局への里帰りであった。富山では前述の通り大糸線や高山本線北部・神岡線で使用された。神岡線廃止後はほぼ大糸線専属となり、そのままJR西日本へ継承された。JR化後は高山本線北部がJR西日本へ継承されたことから主に高山本線で使用される車となり、1987年度中に近郊化改造を受け、1988年6月1日には高山色へ変更された。しかし1991年9月の七尾線和倉電化及び以遠の第三セクター化により冷房キハ58系が高山線へ転入してきたことから、再び大糸線用となった。しかしながら、JR東日本区間へ乗り入れる運用が減少し、キハ52単行列車へ置き換えられ、1993年12月10日付で廃車となった。

外観は、金沢時代の形態を色濃く残している。
前面は、金沢時代に前面補強がされているが、補強版の境目は分かりづらい。ワイパーは強化型のWP50へ改造されており、運転室窓下の手すりは撤去され、金沢局標準の形態である。タイフォンは新潟時代にシャッター式へ改造されており、そのままである。放送用ジャンパ受栓は、ステップ下部に設置されている。テールライトは、運転席側のみ外ばめ式で、金沢地区に見られた形態である。
側面はほぼ原形であり、乗降扉隅の丸窓も残存している。車体中央付近側窓下にサボ挿しが増設されている。
屋根上では、水タンクが金沢でよく見られる台形のものに更新されている。
床下はほぼ原形であるが、単線用スノープロウが取り付けられている。


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