キハ58 469



1963年9月14日富士重工製の5-2次車で、昭和38年度民有で松本運転区に配置された。同一ロットの469・470全車が松本へ配置された。中央東線では2エンジン車による長大編成を組むことから早くから大量のキハ58型が投入されていたが、400番台の長大編成対応車が一挙に投入されると、それまで配置されていた0番台は各地に散るという同形式置き換えが早くから行われていた。中央東線ではもちろん急行「アルプス」をはじめとして、各支線区へ乗り入れる急行運用に使用された。しかし、1965年5月20日には中央東線全線電化が完成し、早くも大量のキハ58が余剰となってしまった。この際中部地区へ転用されるようになり、1965年9月に美濃太田へ転出した。美濃太田では高山本線の急行「のりくら」を中心に運用されたが、1974年に長野との間で冷房キハ57と車両交換があり、当車は1974年12月26日付で長野へ転出した。しかし束の間「50-3改正」を控えた車両転配で余剰となり、キハ55置き換えで1975年2月27日付で七尾へ転出した。七尾では急行「能登路」で使用されたが、「53-10改正」で長野・金沢から大量の冷房車が捻出され、当車は玉突きで978年10月18日付で弘前へ転出した。弘前では奥羽本線・五能線の急行で主に使用され、国鉄末期の急行廃止後は普通列車で使用され、そのままJR東日本へ継承された。JR化後も弘前配置で引き続き五能線快速や勾配路線の花輪線で使用されたが、1990年より始まったキハ110系投入による車両転配の際に余剰となり、1993年6月1日付で廃車となった。

外観は、JR東日本継承車では珍しく金沢時代の形態を色濃く残している。
前面は、金沢時代に前面補強がされているが、補強板の境目は分かりづらい。ワイパーは強化型のWP50へ改造されており、運転室窓下の手すりは撤去され、金沢局標準の形態である。タイフォンは金沢時代のスリット式のままで、東北地方では珍しい。放送用ジャンパ受栓は、秋田地区標準、テールライトの外側付近にある。テールライトは、原形の内ばめ式のままである。
側面はほぼ原形であるが、乗降扉隅の丸窓は埋められている。
屋根上はほぼ原形である、
床下もほぼ原形であるが、複線用スノープロウが取り付けられている。


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