キハ58 482



「60-3改正」で山形から遠く高松へ移動した3両(293・482・516)の1両。

1964年4月6日日本車輌製の6-1次車で、昭和38年度第2次債務で山形機関区へ配置された仲間の1両。同一ロット482・483両車とも山形へ配置されている。山形では急行「ざおう」「もがみ」「べにばな」等、奥羽本線系の急行で使用された。東北地方では車両の増備に伴い車両の転配が続き、東北本線全線電化の「43-10改正」時に、盛岡の800番台車と入れ替わる形で当車は兄弟の482とともに盛岡へ転出した。盛岡では東北本線の幹線急行で国鉄末期まで使用された。1973年には急行「しらゆき」の冷房車に抜擢され冷房化され、1973年10月1日付けで担当区所の秋田へ転出した。以降急行「しらゆき」の指定席車で優先的に使用されたが、1982年11月の東北新幹線開業に伴う大規模ダイヤ改正で当車は地方急行の冷房化に回り、11月15日付で山形機関区へ移動となった。山形では急行「べにばな」「月山」「もがみ」等で使用された。1985年3月改正では東北地区でも特急格上げによる急行の削減が続き、当車は3月27日付で遠く離れた四国へ移動することになった。これは、四国では最古参のキハ57形を淘汰する代替車を求めていたが、四国では既に全車に汚物処理装置が装備されていたので、同じく汚物処理装置が早くから整備された元秋田配置車に白羽の矢が当たったものである。四国ではスノープロウとタイフォンシャッター取り外しのみで東北顔丸出しで引き続き活躍し異彩を放っていた。JR化直前の1987年2月9日に回転クロスシート化され、そのままJR四国へ継承された。JR化後は1989年3月2日付で四国色へ変更され、引き続き四国の急行で活躍した。1989年にはキハ185系増備により急行の活躍範囲が狭まり、予讃線では松山以遠の急行「うわじま」のみとなり、1989年7月22日付で松山へ転属した。その後も急行「うわじま」で細々と活躍したが2000系の増備は続き、1990年11月のダイヤ改正で急行は全て特急格上げされ、当車はローカル専用となる。1992年3月改正では徳島へ移動し急行「よしの川」等で使用されたが長続きせず、1992年7月の予讃本線の電化延伸による車両転配で余剰となり、1992年9月30日付で廃車となった。他の山形転入組(293・516)はキハ58系の最末期まで残留したのと対照的であった。

前面は、前面補強は秋田地区タイプであり、この形態で末期四国地区を駆け巡っていたというのは、広域転配の証であった。制御ジャンパ受栓はタイフォン下部に寄り添う位置へ移設されている。ステップは四国標準車と異なり、原形のままである。放送ジャンパ受栓は、四国配置後も秋田地区特有のレールライト左にある。タイフォンカバーはシャッター無しである。テールライトは内ばめのままである。
側面はほぼ原形である。汚物処理タンクが設置されているので、便所部側面に点検蓋のようなものが設けられている。運転席側窓バランサー点検蓋及び乗降扉の点検蓋は原形のままで、四国標準車とは形態が異なる。
屋根上は冷房化以降手が加えられていない。
床下は、後位側に汚物処理装置が設置されている。前位側のスノープロウは高松転入後に当然撤去されている。


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