キハ58 502



1964年2月18日新潟鉄工製の6-1次車で、昭和38年度第2次債務で山形機関区に新製配置された。同ロットの502〜505全車が山形に配置された。山形では急行「ざおう」「もがみ」「べにばな」等、奥羽本線系の急行で使用された。1965年度には一部運用が新規配置の弘前へ移管され、同年度中に同ロットの兄弟を含む502〜506が弘前へ転出した。その後は東北北部の車両基地間での車両の交換が続き、1966年度には502〜505揃って青森運転所へ移動した。青森では1968年の東北本線電化による運用減と、更なる増備車により転出車が続出し、当車は同ロット502〜505共に1968年4月13日付で米子へ転出した。米子転出後は急行「だいせん」「伯耆」「さんべ」等山陰本線の急行列車で使用され、1971年頃に冷房化された。山陽新幹線開業の「72-10改正」では陰陽連絡特急が増発され、米子担当の急行運用が減少したことから、一部運用を豊岡へ移管することになり、同年度に豊岡へ転出した。以降急行「但馬」「丹波」「丹後」「だいせん」等山陰本線東部の急行で使用された。国鉄末期には近隣の福知山との間で車両交換があり、1986年11月1日付で福知山へ転出し、そのままJR西日本へ継承された。福知山では急行「丹後」を中心に使用されたが、1990年代中盤にかかると編成の整理及び指定席車へのアコモ改造車投入により捻出され、1993年9月4日付で米子へ転出し、山陰本線の快速・普通列車で使用されるようになった。途中1997年3月には組織改正で後藤所属となるが運用の実態は変わらない。その後は1999年に舞鶴線電化により福知山からキハ47が転入したことにより余剰となり、2000年3月31日付で廃車となった。

外観的には、米子地区の形態を色濃く残していた。
前面は、後藤工場タイプの前面補強が施工されている。正面窓上の通風口・水切りは撤去されすっきりしている。ワイパーは強化型のWP50へ更新されており、それに伴い運転室窓下の手すりが短くなっているのは、後藤工場の標準タイプである。タイフォンカバーは当初からシャッター付きで落成しており、そのまま最後までシャッター付きであった。テールライトは内ばめ式のままである。制御ジャンパ栓受、ステップの位置は後藤工場標準の位置にある。放送用ジャンパ受栓は、関西地区標準のタイフォンとテールライトの間付近にある。
側面は、ほぼ原型である。
屋根上はすべての通風器が交換され、ハーフガーランドベンチレーターとなっている。水タンクは、原型のままである。
床下機器はほぼ原型である。


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