キハ58 516



JR四国で最末期まで使用されたキハ58形の1両。

1964年3月16日富士重工製の6-1次車で、昭和38年度第二次債務で小牛田機関区(陸羽東線・石巻線管理所)へ配属された。同一ロット514〜516では515が同じく小牛田へ配置された。小牛田では東北本線の急行「陸中」、「たざわ」等で使用された。515とともにしばらくは東北北部を転々とし、1965年度には青森運転所へ、1966年度は盛岡客車区へ、1967年度には弘前機関区へ、そして1968年度には盛岡客車区へと転属した。いずれも515と同一行動であった。1973年には急行「しらゆき」の冷房車に抜擢され冷房化され、1973年10月1日付けで担当区所の秋田へ転出した。これにより兄弟の515と離れ離れとなった。ちなみに515はそのまま盛岡で1995年まで使用され、一生を終えている。1982年11月の東北新幹線開業に伴う大規模ダイヤ改正で当車は地方急行の冷房化に回り、11月15日付で山形機関区へ移動となった。山形では急行「べにばな」「月山」「もがみ」等で使用された。1985年3月改正では東北地区でも特急格上げによる急行の削減が続き、当車は遠く離れた四国へ移動することになった。これは、四国では最古参のキハ57形を淘汰する代替車を求めていたが、四国では既に全車に汚物処理装置が装備されていたので、同じく汚物処理装置が早くから整備された元秋田配置車に白羽の矢が当たったものである。四国ではスノープロウとタイフォンシャッター取り外しのみで東北顔丸出しで引き続き活躍し異彩を放っていた。四国では早い時期から急行の特急格上げ、電化、新型気動車化が進み、車齢の高い・若いに関わらず次々と淘汰が進んだが、当車は同じく東北出身の293番と共に長らく四国で生き長らえた。(ちなみに同じく東北出身の482番は1992年9月30日付で廃車となっている) JRに移管後も引き続き急行運用に就いており、1988年11月22日付で四国色へ塗り替えられたが、キハ185系の増備により早々と1989年7月22日付で松山に転出した。その後は1990年7月17日付で近郊化改造され、ローカル運用に徹した。最後は2007年の1500形増備による車両転配により余剰となり、2008年3月31日付で廃車となった。

外観は、鋼体自体は原型をよく保っているが、四国特有の改造により、原型からは随分雰囲気が変わっている。
前面は、正面窓上の通風口と雨どいが撤去されており、晩年の四国地区の標準スタイルである。正面窓上の小手すりの上に、「架線注意」の札が設置されている。前面補強は秋田地区タイプであり、この形態で末期四国地区を駆け巡っていたというのは、広域転配の証であった。制御ジャンパ受栓及び冷房電源用ジャンパ受栓は、四国転入当初は初期冷房車に見られた位置であったが、多度津工場で他の四国生え抜き車と同様の位置へ移設されており、特徴が失われている。放送ジャンパ受栓は、四国配置後も秋田地区特有のレールライト左にあったが、1990年代末期にテールライトの向かって右側へ移設されたが、引き続き他の四国車には無い形態であり異彩を放っていた。タイフォンカバーはシャッター無しである。テールライトは内ばめのままであったが、2000年代に外ばめ式に改造されている。
屋根上は通風器がすべて撤去されているのは2000年以降の四国共通の標準仕様である。近郊化改造時に便所が撤去されているので、併せて屋根上の水タンクも撤去され、キハ28のような状態になっている。
側面は便洗面所が撤去された際に、臭気抜き窓が撤去されている。便洗面所窓ガラスも透明のものに交換されている。汚物処理タンクが設置されていた名残で、便所部側面に点検蓋のようなものが設けられている。運転席側窓バランサー点検蓋及び乗降扉の点検蓋は原型のままであり、手を加えられていた四国生え抜き車との区別は容易であった。
床下では、機関は原型のDMH17Hエンジンを装備しているが、2位側の機関予熱器は撤去されている。暖地であることから後位側の機関予熱器が撤去されている。便所が撤去されているため、便所流し管は無い。
妻面は、四国近郊型特有の、仕切り扉付き。その関係でデッキにあった加工窓は埋められている。これは、デッキ撤去に伴い、車内外を仕切る扉が無くなったための代替措置であった。


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