キハ58 527



1964年5月4日新潟鉄工製の6-2次車で、昭和38年度第3次債務で青森運転所へ配属された。同一ロット527〜530のうち、527・528が青森へ配置された。青森では新設された急行「みちのく」を中心に幹線急行で使用された。しかし早くも1966年度には車両増備及び運用移管による転配が相次ぎ、当車は1966年度中に528とともに弘前へ転出した。弘前では急行「みちのく」の大鰐編成で使用された。しかし東北本線の全線電化で急行「みちのく」が廃止され、一部仲間は盛岡等へ転属するが、当車は引き続き五能線直通の急行「深浦」等で活躍した。しかし1970年には新潟からの転入車と交代し、秋田へ転出した。秋田では急行「おが」「羽越」などで活躍し、1973年からは運用移管で「しらゆき」にも充当されるようになった。そしてそのまま国鉄末期まで活躍したが、東北新幹線開業の「57-11改正」で急行が廃止され、当車は1982年11月19日付で盛岡へ転出した。盛岡では釜石線内のみとなった急行「陸中」や、キハ55に代わり田沢湖・釜石・山田・花輪線の普通列車で使用された。1985年より急行「陸中」にも冷房車が入るようになり、当車は専らローカル用となり、そのままJR東日本へ継承された。JR化後は1987年9月に盛岡色へ変更され、引き続き前記路線の普通列車で使用された。1989年11月に新潟製DMF13HZ機関へ換装されたが、1990年より始まったキハ110系投入により余剰となり、1991年4月10日付で一ノ関へ転出した。一ノ関での活躍は一時的なつなぎで、当区のキハ58系運用が廃止された1992年11月12日付で秋田へ転出、田沢湖線や男鹿線で活躍するようになった。秋田転出後は秋田色へ変更されたが、早くも1993年12月1日には弘前へ転出し、花輪線や五能線で使用されるようになった。しかし1994年には、奥羽本線内普通列車の701系電車化と、花輪線運用の秋田への統合により弘前のキハ58系は消滅し、当車は書類上一旦1994年12月3日付で秋田へ転属するが、秋田で使用されることは無く、そのまま1995年12月28日付で廃車となった。

前面は、国鉄時代の土崎で前面補強が施工されている。ワイパーは強化型のWP50に更新されているが、手すりの位置は変わっておらず、土崎工場の標準スタイルである。正面窓上の通風口は助手席側が撤去されている。テールライトは後期車のように外ばめ式に改造されている。タイフォンは原形のシャッター式である。放送用ジャンパ受栓は、盛岡地区標準の、ステップ上部へ移設されている。
屋根上は、ほぼ原形のままであるが、国鉄時代は常磐線急行「みちのく」の名残で、常磐無線を取り付けていた。
側面は、400番台以降の乗降扉下部の丸窓が撤去されている。汚物処理装置を取り付けているので、側面に点検蓋がある。
床下では、機関は新潟製DMF13HZへ換装されている。スノープロウは単線用を取り付けている。秋田時代より汚物処理装置を取り付けている。


キハ58イラストのページへ戻る

キハ58系のページへ戻る

ホームへ戻る