キハ58 538 → キハ58 5512




1964年4月14日富士重工製の6-2次車で、昭和38年度3次債務で米子へ配置された。同一ロット537とともに米子へ配置された。当車の新製直後の動きは複雑で、新製直後の1964年5月27日には新潟へ転出。その後7月9日で千葉へ移動。房総地区の海水浴臨で使用され、終了後の8月31日付で七尾へ移動後、9月25日に一旦新潟へ戻り、10月5日付で正式配置区の米子へ戻った。新潟への移動はいわゆる疎開であると思われる動きである。米子配置後はしばらく落ち着き、山陰本線の急行「だいせん」「伯耆」「さんべ」で使用された。1969年度には早くも冷房化されている。1971年度には運用移管で浜田へ転出し、引き続き急行「だいせん」等で使用されたが、「60-3改正」で山陰本線西部の急行が整理され、浜田機関区が廃止となった際に余剰となり、当車は若番車を置き換えるため1985年3月16日付で豊岡へ転出した。しかし豊岡での活躍は長くなく、国鉄最後の「61-11改正」で福知山線が電化され、急行「丹波」の廃止により1986年11月1日付で敦賀機関区へ転出し、そのままJR西日本に継承された。JR化後は1987年度に近郊化改造され普通列車専属となり、1988年4月14日付けで小浜色へ塗装変更された。また1991年3月には組織改正で小浜鉄道部が発足し、同区所属となった。しかし1991年7月には七尾線和倉電化、七尾以遠の第三セクター化による車両転配で余剰となり、播但線の客車列車置き換えに活用されることになり、1992年1月16日付でロングシート化の上キハ58 5512へ改造された。その後は姫新線・播但線の普通列車で使用され、1994年4月8日に「姫路色」へ変更された。しかしながら、需要の旺盛な播但線は電化されることになり、1998年3月14日ダイヤ改正で電化のため姫路のキハ58系は全て余剰となった。そして当車は1999年4月19日付で廃車となった。

外観は米子局時代の形態を色濃く残している。
前面は、後藤工場タイプの前面補強がされている。ワイパーはWP50へ更新されそれに伴い運転室窓下の手すりが短くなっているのは、米子地区の特徴である。タイフォンは当ロットオリジナルのシャッター付きのままである。制御用ジャンパ受栓の位置、ステップの位置は後藤工場標準タイプである。放送用ジャンパ栓の位置は、原型のステップ一体型のままである。正面窓上の水切りは撤去されている。
側面では、前面窓から延びる水切りが撤去されている。乗降扉下部隅の丸窓は撤去され存在しない。
屋根上は、標準的な冷房車の形態である。
床下は、ほぼ原型である。


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