キハ58 539




1964年5月4日富士重工製の6-2次車で、昭和38年度3次債務で米子へ配置された。同一ロット539とともに米子へ配置された。当車の新製直後の動きは複雑で、新製直後の1964年5月25日には新潟へ転出。その後7月9日で千葉へ移動。房総地区の海水浴臨で使用され、終了後の9月1日付で一旦新潟へ戻り、10月4日付で和歌山へ移動の後、同年度中に正式配置区の米子へ戻った。新潟への移動はいわゆる疎開であると思われる動きである。米子配置後はしばらく落ち着き、山陰本線の急行「だいせん」「伯耆」「さんべ」で使用された。その後運用変更で1969年度に浜田へ移動し、また同年に冷房化され、引き続き急行「だいせん」「さんべ」等で使用された。「60-3改正」で山陰本線西部の急行が整理され、浜田機関区が廃止となり米子に統合されることになり、当車は1985年3月14日付で米子へ移動した。国鉄末期の「61-11改正」では急行「だいせん」が廃止され、急行型は鳥取に集められることになり1986年11月1日付けで鳥取へ移動し、そのままJR西日本へ継承された。鳥取では急行「砂丘」「但馬」「みささ」で使用されたが、急行の減車、山陰本線の運用持ち替えで1990年3月10日付で米子へ転出した。1994年には山陰本線下関口の気動車化を進めることになり、1994年5月15日付けで小郡へ転出した。小郡では黄色の「広島普通色」に塗装変更され、山陰本線下関口及び山口線で普通列車で使用された。その後1995年10月1日には組織改正で山口鉄道部となったが運用は変わらない。しかし1990年代後半降各地からキハ40系が転入し、当車は老朽化のため1999年2月1日付で廃車となった。

当車は山陰地区時代の特徴を色濃く残している。
前面は、後藤工場タイプの前面補強がされている。ワイパーはWP50へ更新されそれに伴い運転室窓下の手すりが短くなっているのは、米子地区の特徴である。タイフォンは当ロットオリジナルのシャッター付きのままである。制御用ジャンパ受栓の位置、ステップの位置は後藤工場標準タイプである。放送用ジャンパ受栓は、ステップ一体型となっている。正面窓上の通風口・水切りは原型のままである。テールライトは原型の内ばめ式のままである。
側面では、乗降ドア隅の丸穴が完全になくなっているのは、後年の広島地区の特徴。広島地区の特徴として側面ほぼ中央部窓下にサボ差しが追設されている。
屋根上は、全ての通風器が断面5角形の箱型ベンチレーターに交換されている。
床下は、ほぼ原型である。


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