キハ58 540



1964年5月4日富士重工製の6-2次車で、昭和38年度3次債務で米子へ配置された。同一ロット539とともに米子へ配置された。当車の新製直後の動きは複雑で、新製直後の1964年5月29日には新潟へ転出。その後7月9日で千葉へ移動。房総地区の海水浴臨で使用され、終了後の8月31日付で一旦新潟へ戻り、10月5日付で正式配置区の米子へ戻った。新潟への移動はいわゆる疎開であると思われる動きである。米子配置後はしばらく落ち着き、山陰本線の急行「だいせん」「伯耆」「さんべ」で使用された。1968年6月8日に簡易冷房車に改造されたが、1972年3月8日に通常の冷房車に再改造された。長らく急行「だいせん」等で使用されたが、「60-3改正」で山陰本線西部の急行が整理され、浜田機関区が廃止となり米子に統合されたことから余剰となり、当車は若番車を置き換えるため1985年3月21日付で福知山へ転出した。しかし福知山での活躍は長くなく、国鉄最後の「61-11改正」で福知山線が電化され、急行「丹波」の廃止により1986年10月31日付で七尾機関区へ転出し、そのままJR西日本に継承された。JR化後すぐ近郊化改造され普通列車専業となる。七尾では1988年度に七尾普通色へ変更され、七尾線の普通列車で使用されたが、1990年に小浜との間で車両交換があり、当車は1990年度で新設された小浜鉄道部へ移動した。移動前後の1990年12月1日付でワンマン化され、塗装も小浜色となった。小浜線では長く使用されたが、2003年3月15日の小浜線電化で用途を失い、2003年7月25日付けで廃車となった。

当車は山陰地区時代の特徴を色濃く残していた。
前面は、後藤工場タイプの前面補強がされている。ワイパーはWP50へ更新されそれに伴い運転室窓下の手すりが短くなっているのは、米子地区の特徴である。タイフォンは当ロットオリジナルのシャッター付きのままである。制御用ジャンパ受栓の位置、ステップの位置は後藤工場標準タイプである。正面窓上の水切り・通風口は撤去されている。小浜ではワンマン化に伴う放送ケーブルの追加は行われていない。そのため放送用ジャンパ栓の位置は、原型のステップ一体型のままである。
側面では、前面窓から延びる水切りが撤去されているが、乗務員室窓に水切りは追設されていない。乗降ドア隅の丸穴が完全になくなっているのは、後年の金沢地区の特徴。ワンマン化に伴い、最前部の側窓下と、後位側の便所臭気抜き窓下に、ワンマン用スピーカーを備える。
屋根上は、全ての通風器が断面5角形の箱型ベンチレーターに交換されている。また水タンクは台形のものに更新されている。以上は金沢地区の標準である。文献によると、簡易冷房車の量産化改造車は、クーラーの間隔が量産冷房車と異なるとされているが、末期の姿を見る限り、クーラーの間隔は量産車と同じである。
床下機器はすべて灰色で塗装されているのは晩年の金沢地区の特徴である。また、油タンクは角型の新型に更新されている。


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