キハ58 541



1964年5月13日富士重工製の6-2次車で、昭和38年度3次債務で新潟へ配置された。同一ロット541〜543のうち、541・542が新潟へ配置された。当車の新製直後の動きは複雑で、新製後、7月2日で千葉へ移動。房総地区の海水浴臨で使用され、終了後の9月2日付で一旦新潟へ戻り、10月16日付で正式配置区の米子へ戻った。米子配置後はしばらく落ち着き、山陰本線の急行「だいせん」「伯耆」「さんべ」で使用され、1969年度に冷房車に改造された。冷房改造前後の1969年度中に浜田に転属し、長らく山陰本線の急行で使用されたが、「60-3改正」で山陰本線西部の急行が整理され、浜田機関区が廃止となり米子に統合されたことから1985年3月14日付で米子へ転出し、そのままJR西日本に継承された。JR化後初期はキハ58系の配置を鳥取へ集約する傾向があり、1988年3月13日付で鳥取へ移動した。鳥取では山陰本線の快速や急行「砂丘」で使用されたが、1991年には運用の都合で再び米子に戻ることとなり、1990年度中に米子へ転属した。米子では他車が廃車となる中引き続き山陰本線の快速・普通に使用され、特に1990年代中盤は客車列車の気動車化が優先して進められたため、キハ58系の活躍は続いた。その後1997年3月8日に組織変更で後藤総合車両所となるが引退まで米子から移動せず、最後は老朽化のため2002年8月31日付で廃車となった。

当車は山陰地区時代の特徴を色濃く残していた。
前面は、後藤工場タイプの前面補強がされている。ワイパーはWP50へ更新されそれに伴い運転室窓下の手すりが短くなっているのは、米子地区の特徴である。タイフォンは当ロットオリジナルのシャッター付きのままである。制御用ジャンパ受栓の位置、ステップの位置は後藤工場標準タイプである。正面窓上の通風口が撤去されているが、水切りは残置されている。放送用ジャンパ栓の位置は、原型のステップ一体型のままである。テールライトも原型の内ばめ式のままである。
側面は、ほぼ原形のままである。
屋根上は、全ての通風器がハーフガーランドベンチレーターに交換されている。また水タンクは台形のものに更新されている。
床下は、ほぼ原形のままである。


キハ58イラストのページへ戻る

キハ58系のページへ戻る

ホームへ戻る