キハ58 550



1964年5月4日新潟鉄工製の6-3次車で、昭和39年度民有債で青森運転所へ配属された。同一ロット549〜551のうち、549・550が青森へ配置された。青森では新設された急行「みちのく」を中心に幹線急行で使用された。しかし早くも1966年度には車両増備及び運用移管による転配が相次ぎ、当車は1966年度中に弘前へ転出した。弘前では急行「みちのく」の大鰐編成で使用された。しかし東北本線の全線電化で急行「みちのく」が廃止され、一部仲間は盛岡等へ転属するが、当車は引き続き五能線直通の急行「深浦」等で活躍した。しかし1970年には新潟からの転入車と交代し、秋田へ転出した。秋田では急行「おが」「羽越」などで活躍し、1973年からは運用移管で「しらゆき」にも充当されるようになった。そしてそのまま国鉄末期まで活躍したが、東北新幹線開業の「57-11改正」で急行が廃止され、当車は1982年11月29日付で遠く熊本へ転出した。熊本ではキハ55に代わり豊肥本線等で普通列車に使用されるようになった。しかし汚物処理装置の付いた当車は熊本では扱いづらく、1984年度に同じくキハ55系置き換えで広島運転所へ転出した。これは広島では当時既に汚物処理装置を使用していたからであると思われる。しかし広島では向日町等から汚物処理装置付きの冷房キハ58が供給されるようになったことから、「60-3改正」で再び東北の盛岡へ移動することになり1985年3月25日付で転出した。もし非冷房のまま熊本や広島に残留していたら恐らく早期廃車の運命であったと思われ、非常に幸運な車である。盛岡へ転出後は主に山田線・釜石線・花輪線の普通列車で使用され、そのままJR東日本へ継承された。JR化後は1987年9月に盛岡色へ変更され、また1990年3月には機関が新潟製DMF13HZへ換装され、1990年以降のキハ110系投入以降も使用された。しかし1994年以降東北本線系統の普通列車の701系電車化が進み運用数が減少し、当車は1994年8月10日付で廃車となった。

前面は、国鉄時代の土崎で前面補強が施工されておいる。ワイパーは強化型のWP50に更新されているが、手すりの位置は変わっておらず、土崎工場の標準スタイルである。正面窓上の通風口は助手席側が撤去されている。テールライトは後期車のように外ばめ式に改造されている。タイフォンは原型のシャッター式である。放送用ジャンパ受栓は、盛岡地区標準の、ステップ上部へ移設されている。盛岡地区では、正面窓上小手すりに、架線注意を喚起する警戒色の札が取り付けられている。制御用KE53ジャンパ栓納めは寒冷地用のヒーター付きに交換されている。
屋根上は、ほぼ原形のままであるが、国鉄時代は常磐線急行「みちのく」の名残で、常磐無線を取り付けていた。
側面は、400番台以降の乗降扉下部の丸窓が撤去されている。汚物処理装置を取り付けているので、側面に点検蓋がある。
床下では、スノープロウは単線用を取り付けている。秋田時代より汚物処理装置を取り付けている。


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