キハ58 564



1964年10月7日新潟鉄工製の6-3次車で、昭和39年度本予算で和歌山機関区に新製配置された。同ロットは563と564の2両のみで、563は宮原へ配置されているので当車は孤独な人生であった。和歌山では1970年頃には冷房化され、紀勢本線の急行「きのくに」で長く活躍した。「60-3改正」では特急「くろしお」増発で急行「きのくに」は全廃となり、当車は1985年3月13日付で伊勢へ転出し、紀勢本線普通列車の気動車化に使用された。国鉄末期には伊勢運転区は廃止し亀山機関区へ統合する動きがあり、1986年3月で規模縮小され、当車は1986年3月3日付けで亀山へ移動し、関西本線・信楽線・片町線で使用され、そのままJR西日本へ継承された。1987年7月13日の信楽線転換後は亀山のキハ58は余剰気味であったが、1988年9月29日付で客車列車置き換えのため福知山運転所へ転出、山陰本線京都口の普通列車で使用開始した。この時期には山陰本線保津峡付近の新線開通に合わせ大量のキハ58系が福知山に集まってきていた。しかし福知山での活躍も束の間、1990年3月には山陰本線園部電化開業し、1988年9月に福知山に集結したキハ58系は早くも大量に余剰が発生する。当車は幸運にも有効活用されることとになり、1990年3月8日付で西鳥取運転区へ転出した。鳥取では急行「砂丘」及び普通列車で使用された。しかし1990年度中には運用移管等で米子へ転出した。その後米子では徐々に運用を減らし余剰車が発生したが、当車は引き続き山陰本線の快速・普通に使用され、特に1990年代中盤は客車列車の気動車化が優先して進められたため、キハ58系の活躍は続いた。その後1997年3月8日に組織変更で後藤総合車両所となるが引退まで米子から移動せず、最後は老朽化のため2002年8月31日付で廃車となった。

外観は、和歌山時代の形態を色濃く残している。
前面は、和歌山時代に高砂工場で関西タイプの前面補強が施工されている。正面窓上の通風口が撤去されているが、水切りは残存している。運転室側のデフロスタは撤去されている。ワイパーは強化型のWP50へ更新されており、運転席窓下の手すりは、これを避けるべく短くなっているのは関西地区特有の形状である。制御用KE53ジャンパ受栓は、左右離れた位置に設置され、ステップは原型の位置のままである。放送ジャンパ受栓は、関西地区特有の位置に移設されている。タイフォンカバーは、原形のシャッター式のままである。テールライトは内ばめ式のままである。
側面は、ほぼ原型である。
屋根上は全ての通風器がハーフガーランド形へ変更されており、屋根上の水タンクは金沢地区に端を発する角型のものに交換されている。AU13クーラーは、ルーバーがメッシュタイプとスリットタイプが混在している。
床下機器はほぼ原型である。


キハ58イラストのページへ戻る

キハ58系のページへ戻る

ホームへ戻る