キハ58 637



バリエーションが多いキハ58系の中でもトップクラスの変形車両。

1965年6月1日新潟鉄工製の第6-4次車で、昭和40年度第3次債務で新潟運転所へ配置された。同一ロットの636〜638全車が新潟へ配置された。同時期に630〜638の一挙9両が新潟に配置されたが、637と638は暫定配置であったのか、1965年7月7日には夏季海水浴輸送用として千葉気動車区へ転出した。海水浴輸送が終了後は638と共に米子へ移動することとなり、1965年9月2日付で転属した。米子では山陰本線系の急行で使用され、急行「だいせん」「伯耆」等で使用された。1968年7月1日にはキハ58系では最初期の冷房化改造が実施され、AU13型クーラーを3つ載せる簡易冷房車へと改造された。その後は急行指定席車で優先的に使用されたが、1969年度より本格的な冷房化改造が始まると簡易冷房車は早くも異端車扱いとなり、当車は1969年度末中に浜田へ転出した。浜田には簡易冷房車に冷房電源を供給するキロ28はおらず、非冷房車扱いとなる。その後も急行「だいせん」や「石見」で使用されるが、1972年には冷房装置を降ろし完全に非冷房車へ戻ってしまう。これは米子に残っていた簡易冷房車が量産冷房化改造されたのと対照的であった。その後は「53-10改正」で紀勢本線電化により和歌山から冷房キハ58 171が浜田へ転入し、非冷房で異端車である当車は他区へ転出することになり、1979年12月10日付で七尾へ転出した。しかし七尾でも「55-10改正」時には他区からの冷房車転入により完全冷房化されることになり、当車は飯山線のキハ55系置き換えのため1980年10月21日付で長野へ転出した。この長野が安住の地となり、そのままJR東日本へ継承された。JR化後も引き続き長野配置で飯山線で使用され、1980年代後半には飯山色へ変更されている。しかし1990年より始まったキハ110系投入による車両転配で長野に後期冷房車が転入すると余剰となり、1992年7月1日付で廃車となった。

前面は、後藤工場標準形態の前面補強が施工されている。ワイパーはWP50へ更新され、運転台側正面窓下手すりは後藤工場標準のやや短い手すりに交換されている。制御ジャンパ受栓及びステップの位置は、非冷房車ながら冷房車に準じ後藤工場標準の位置にある。放送ジャンパは、原型のままステップの下にある。タイフォンカバー新製時よりシャッター付きである。テールライトは原形の内ばめである。
側面はほぼ原形で、乗降ドア隅の丸穴はHゴムが黒くなったものの残存している。
屋根上は当車のみに見られる特異な形態で、簡易冷房車時代に付いていたAU13クーラーの位置に、冷房準備車のような蓋が設けられている。クーラーに給電するケーブル用配管がそのまま残っている。この変な屋根上の形態に加え、飯山色の帯が屋根上までかかっており、特異さに拍車をかけている。
床下機器はほぼ原形である。
車端面には、キロ28から冷房電源を給電するためのジャンパ線の受栓が残っている。


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