キハ58 641




1965年4月20日富士重工製の第6-4次車で、昭和39年度第3次債務で苗穂機関区へ配置された。同一ロット639〜642のうち、639〜641が苗穂へ配置された。苗穂へは北海道夏季輸送用の仮配置であり、夏季輸送終了後は揃って米子へ正式配置となり、1965年9月26日付で米子へ転出した。米子では山陰本線系の急行で使用され、急行「だいせん」「伯耆」等で使用された。1969年に冷房化されたものと思われる。山陰地区は近代化が遅れ、晩年まで車両の動きも少なかった。国鉄末期の「60-3改正」では、急行「石見」廃止に伴い浜田機関区配置車が米子へ統合され、また運用も整理されたことから当車は余剰となり、小海線の老朽キハ57置き換えのため1985年5月23日付けで中込機関区へ転出した。以後、小海線の普通列車専属となり、冷房を使用することも無くなった。中込配置のままJR東日本に継承され、その際に携帯式無線アンテナを挿すための筒が方向幕横に取り付けられた。この装備はキハ58ではJR西日本亀山運転区、JR東海伊勢運転区とJR東日本中込運転区のみの装備であった。JR化後は1991年に小海線にキハ110系が投入され、非冷房車は軒並み廃車されたが冷房車は活用されることになり、当車は一足先の1990年11月11日付で新潟運転所へ転出した。転出後、1991年8月度に機関のカミンズエンジンへの換装が行われ、塗装も新潟色へ変更された。1991年11月1日には新潟駅の再開発で新潟運転所は廃止され新津運輸区へ移管したが、運用の実態は変わらなかった。新津では冷房車であることから快速「あがの」「べにばな」を中心に普通・快速列車で運用された。1993年には新津にもキハ110系が投入され快速「あがの」で使用されるようになり、当車は快速「南三陸」の冷房化率向上のため、1993年12月1日付けで小牛田運輸区へ転出した。小牛田では東北地域本社色に塗られ、快速「南三陸」で長く使用されたが、老朽化したキハ58系をキハ40系で置き換える方針から、2002年10月11日で廃車となった。

外観は、山陰地区の特徴を色濃く残したまま、東北地域本社色に塗装され、異彩を放っていた。
前面は、助手席側の通風口が埋められているのは東北地区の標準形態。後藤工場標準形態の前面補強が施工されている。ワイパーはWP50へ更新され、運転台側正面窓下手すりは後藤工場標準のやや短い手すりに交換されている。制御ジャンパ受栓及びステップの位置は、後藤工場標準の位置にある。放送ジャンパは、原型のままステップの下にある。タイフォンカバーは当次車標準のシャッター付きで落成しており、最後までシャッター付きである。テールライトは原型の内ばめである。前述の通り、正面種別幕の助手席側に、携帯式アンテナを挿す筒が設置されている。
側面では、乗降ドア隅の丸穴が、窓の部分が鉄板で塞いである。乗務員室窓バランサー点検蓋は、原型のままである。中込時代に側面ほぼ中央部の窓間下部に、サボ差しが追加されている。また乗務員室ドア下部に、取っ手が追加されている。JR東日本機関換装車共通で、側面の注水口が埋められている。
屋根上はほぼ原型のままである。
床下機器は、機関がカミンズ製のDMF14HZに換装され、油タンクも角型のものに交換されている。また、スノープロウは単線型を装備している。


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