キハ58 677



JR東日本では最末期まで使用されたキハ58形の1両。

1965年12月10日富士重工製の6-5次車で、昭和40年度第1次民有。米子機関区に兄弟の675〜677揃って新製配置され、山陰本線の急行「だいせん」を筆頭に、「伯耆」「白兎」を中心に使用された。山陰本線では兄弟そろって長く使用され、特に幹線急行運用がメインのため早期に冷房化され、1969年度には兄弟そろて冷房化された。1972年度には配置換えで鳥取機関区へ移動し、急行「砂丘」「みささ」「但馬」等で使用されたが引き続き山陰本線が活躍の場であった。1980年代前半は兄弟揃って鳥取運転区に配置されていたが、「60-3」改正で急行「みささ」が減便された際に余剰となり、当車は同じく兄弟の675と共に1985年5月23日付で遠く中込機関区へ転出したが鳥取に残った676とは生き別れになった。中込では玉突きで車齢の高く特殊装備のキハ57が廃車されている。中込では小海線で使用され、勾配路線でキハ28が存在しないことから冷房が使用できなくなった。中込配置のまま、JR化を迎える。1991年には小海線の体質改善のためキハ110系が投入されることになり、キハ58系は全て余剰となったが、当車は兄弟の675と共に新津運輸区へ転出し、快速「べにばな」「あがの」の冷房化に貢献することとなった。新津への転出は1991年11月30日であった。これにより小海線時代には使用停止状態であった冷房を再び使用することになった。新津への転出と前後して車両更新、機関換装が行われ、車内は更新車共通のセミクロス仕様に、エンジンは新潟・長野地区に多い、カミンズ製DMF14HZへ換装された。併せて塗装も新潟色となった。磐越西線へのキハ110系投入等でキハ58系は徐々に仲間を減らし、飯山線キハ110系化によるキハ52の転入により新津のキハ58は風前の灯となったが、当車は1022に次ぎ新しくさらに更新車・冷房車であることから最後は主に米坂線で使用された。しかしながら、米坂線にも新車が投入されることになり、キハE120の新津への投入によりキハ52と共に余剰となり、2009年6月30日付で廃車となった。

外観的には、最後まで新潟色で残った貴重な車両であった。
前面は、正面窓上の通風口が埋められている。前面補強は後藤工場タイプであり、米子出身であることが判別できた。制御ジャンパ受栓位置や足掛けの位置も後藤工場標準。運転席窓下の手すりは、運転席側がワイパーのWP50化により短くなっており、後藤工場の標準。テールライトは内ばめから、外ばめに改造されているが、これは新津に異動してからの改造である。タイフォンカバーは、後期の新潟タイプで下半分がメッシュ状の筒をかぶせたものとなっており、後藤工場顔と新潟タイフォンが同居した独特の形態であった。
屋根上は通風器・水タンクとも原形であった。
側面では、乗降ドアが交換され、金属押さえ窓、ドア隅の小窓無し、タブレット保護柵用の窪み無しである。また、乗務員室ドアも交換され、ドアノブが、窪みの中に収まっている。また乗務員室ドア下部に、小手すりが追加されている。また、客室・常務員共にドア下のくつずり部がステンレスに交換されている。また、当地区では側面ほぼ中央部窓下にサボ差しが追設されているが、これも他地域と比べ窓半分後位側へずれている。そのため、サボの位置とナンバーの位置がずれている。(他地域のものは、前位側から5枚目の客室窓下にあるが、当車は前位側から5枚目と6枚目の間にある) また、汚物処理タンクが設置されているので、便所部側面に点検蓋のようなものが設けられている。客室扉戸袋部の点検蓋はキハ40系のような形状に更新されている。乗務員室ドア後部にあったタブレット保護板は撤去されている。JR東日本のエンジン換装車共通で、側面の機関冷却水給水口が埋められている。洗面所側は、洗面所が撤去されたのに伴いガラスが通常の透明ガラスに交換され、また臭気抜き窓が撤去されている。
床下では、複線用スノープロウを付けており、新津での施工である。エンジンは、防火対策・車両更新の際にカミンズ製DMF14HZへ交換されている。また、燃料油タンクも角型のものに交換されている。トイレには汚物処理タンクが取り付けられたが、後年の施工であるため、新型の角ばったものが取り付けられている。


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