キハ58 683 → キハ53 1001



JR線上の両運転台キハ58系として末期まで活躍した車両。ここでは母体のキハ58 683の歴史を振り返る。

1965年12月24日富士重工製の第6-5次車で、昭和40年度第1次民有で美濃太田機関区へ配置された。同一ロット681〜683全車が美濃太田へ配置され、前ロットの678〜680とともに一挙6両が新製配置された。美濃太田ではキハ55系に代わり高山本線の急行「のりくら」及び高山本線〜北陸本線の循環急行「しろがね・こがね」で使用された。その後循環急行の廃止や急行の特急格上げにより急行運用は減少するが、次第に普通列車にも進出し、比較的早く冷房化されたこともあり、長く美濃太田で活躍した。国鉄最後の「61-11改正」時に、当時越美南線の廃止が確定していたことから、若番車の多い七尾機関区との間で車両交換が行われ、状態の良い当車は1986年10月30日付で七尾機関区へ転出し、そのままJR西日本に継承された。JR化後すぐの1987年12月7日付で、七尾線末端部の単行運転のために両運転台化及び近郊化され、キハ53 1001となった。この際に使用された運転台は、その形状から1987年1月14日付で廃車となったキハ58 261のものであると思われるが、キハ58 261の現役当時の姿が確認されていないため、確証はない。両運化直後は急行色のままであったが、程なく1989年6月21日付で七尾線普通色へ変更された。改造後間もない1991年7月には七尾線和倉電化及び末端部の第三セクター化により用途を失い、当車は高山本線北部に転用され、1991年に富山鉄道部へ転出した。転出後は塗装を緑色ベースの高山色へ変更しワンマン化改造された。高山線時代も長続きせず、1996年にはキハ120投入により余剰となり、当時未だ非冷房のキハ30やキハ52、運用効率の悪いキサハ34が残っていた高岡へ1996年3月16日付で転出し、高岡の車種統一に貢献した。高岡転出後は白色ベースに青と黄色の高岡色U-2に変更され、更に2000年頃から赤色ベースの現行高岡色Vへ変更された。しかし高岡へは各地からキハ40系が転入し徐々にキハ58系は淘汰され、2005年3月31日に廃車となった。

前位側 前面は、正面窓上の通風口が埋められ、水切りも撤去された金沢標準形態。美濃太田時代に名古屋工場標準タイプの前面補強が施工されている。ワイパーはWP50へ更新され、その際に運転台側正面窓下手すりが極小になっているのは、名古屋工場の標準形態である。制御ジャンパ受栓は、2つ離れた位置に移設され、後期冷房車の標準的仕様。放送ジャンパは、ワンマン化で1本増え、2本ともステップの下にある。タイフォンカバーは後年スリット式に改造されている。
後位側 前面は、正面窓上の通風口が埋められ、水切りも撤去された金沢標準形態。金沢地区標準の前面補強が施工されていた。ワイパーはWP50へ更新され、運転室窓下の手すりがなくなっているのは、金沢地区の標準の形態である。制御ジャンパ受栓は、タイフォンの左右に分かれたタイプ。放送ジャンパは、ワンマン化で1本増え、2本ともタイフォン横ステップ下にある。タイフォンカバーはシャッター付きである。テールライトは金沢地区でのみ見られる、運転台側のみが外ばめに改造された形態である。
側面では、前面窓から延びる水切りが撤去されており、乗務員室窓のみに水切りが追設されているのは、金沢地区の共通事項。乗降ドア隅の丸穴が完全になくなっているのも、末期の金沢地区の特徴。ワンマン化に伴い、最前部の側窓下と、後位側の便所臭気抜き窓下に、ワンマン用スピーカーを備える。運転室側窓のバランサー点検蓋は、各々種車の形態を引き継いでいる。
屋根上は全ての通風器が角型の箱型通風器に交換されている。クーラーは、最前位のものだけメッシュタイプであった。
床下機器はすべて灰色で塗装されているのは晩年の金沢地区の特徴であった。また、油タンクは角型の新型に更新されている。


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