キハ58 739



JR東日本盛岡地区で最末期まで使用されたキハ58形の1両。特に当車は最後まで非冷房で活躍した平窓車であったため特に人気があった。当時、他のモデルチェンジ車(1500番代)にも廃車が出ており、状態や検査周期の関係上当車が残ったものと思われる。

1966年4月9日新潟鐵工製の6-6次車で、昭和40年度第1次債務で函館運転所へ配置された仲間の1両。同一ロットでは740が同日に函館へ配置されている。函館へは北海道夏季輸送の仮配置であり、夏季輸送終了後9月17日付で本来の配置区である青森運転所へ異動した。兄弟の740は小牛田機関区へ正式配置されたため、739は以後単独行動となった。青森では東北本線の急行に使用されたが、全線電化直前の1967年度には尻内機関区(後の八戸機関区)へ移動し、八戸線から東北本線・奥羽本線の急行「なつどまり」「深浦」等に使用された。車生の大半を八戸で過ごし、急行列車削減後も八戸線・大湊線の快速に使用され、そのままJR化を迎えた。JR化後は1987年5月13日に盛岡色化され、また1988年頃に青函博に伴って運行された「EXPOライナー」用のヘッドマークステーを取り付けた。1990年前半のキハ110系大量投入に伴い、1991年度で八戸線・大湊線はキハ40系で統一されることとなり、車齢の浅い当車は花輪線で使用すべく1992年3月25日付で弘前運転区へ転出した。1994年度には花輪線運用車は盛岡に移管されることとなり1994年12月3日付で盛岡へ転出した。盛岡では引き続き花輪線のほか、山田線でも使用された。盛岡が最後の配置区となり、キハ130系の水郡線投入による玉突きでキハ110系が盛岡へ転入したことにより、2008年3月30日付けで廃車になった。

前面は、正面窓上の通風口が残存し、晩年のJR東日本キハ58系では希少な形態。前面補強は国鉄時代の盛岡地区標準的な施工で、運転室側・助手席側ともにWP50対応の切り欠きがある。ワイパーは強化型のWP50に交換ており、それを避けるよう運転室窓下の手すり位置が大きく下がっているのは盛岡地区の特徴。放送用ジャンパ受栓は、秋田地区標準の位置へ移っている。タイフォンカバーは、後期車では新製時よりのシャッター付となっている。貫通扉に八戸時代の「EXPOライナー」用のヘッドマーク受けが残っている。
屋根上は概ね原型で、通風器・水タンク共に新製時のまま。よって後期車特有のデッキ上の通風器もそのままである。花輪線・山田線用に追設された衛星電話アンテナが目立つ。
側面は、概ね原型であるが、乗降ドア下部の円形小窓が埋められている。乗務員室ドア下部に、小手すりが追加されている。当地区では側面ほぼ中央部窓下にサボ差しが追設されている。JR東日本のエンジン換装車共通で、側面の機関冷却水給水口が埋められている。
床下では、複線用スノープロウを付けている。エンジンは、防火対策・車両更新の際に新潟鉄工製DMF13HZへ交換されている。また、燃料油タンクも角型のものに交換されている。


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