キハ58 750




1966年5月27日富士重工製の第6-6次車で、昭和40年度第1次債務で釧路機関区へ配置された。同一ロットの749・750全車が釧路へ配置された。釧路へは北海道夏季輸送用の仮配置で、夏季輸送終了後1966年10月2日付で749と共に米子へ正式配置された。米子では山陰本線系の急行で使用され、急行「だいせん」「伯耆」等で使用された。1969年頃に早くも冷房化されるが、同時期に運用持ち替えで浜田へ移動した。浜田では引き続き山陰本線の急行「だいせん」「さんべ」等で使用された。当車はキハ58系急行「だいせん」の末期まで山陰地区に在籍し、浜田機関区が米子機関区へ統合・廃止される1985年3月14日付で米子へ転出した。米子配置のままJR西日本へ継承された。JR化後はキハ58系の配置を鳥取へ集約する傾向があり、1988年3月13日付で鳥取へ転出した。鳥取では引き続き山陰本線の快速や急行「砂丘」で使用された。1990年代に入ると再び米子へキハ58系が集まり、1990年3月10日付で米子へ移動し、山陰本線快速列車に使用される。1997年3月8日には組織改正で後藤総合車両所と名前を変えるが実態は同じであった。その後は1999年に舞鶴線電化により福知山からキハ47が転入したことにより余剰となり、2000年3月31日付で廃車となった。

外観は、米子地区の特徴を色濃く残している。
前面は、延命工事時に正面窓上の通風口が埋められているが、水切りは残っている。後藤工場標準形態の前面補強が施工されている。ワイパーはWP50へ更新され、運転台側正面窓下手すりは後藤工場標準のやや短い手すりに交換されている。制御ジャンパ受栓及びステップの位置は、後藤工場標準の位置にある。放送ジャンパは、原型のままステップの下にある。タイフォンカバーは最後までシャッター付きである。テールライトは原型の外ばめである。
側面では、乗降ドア隅の丸穴はHゴムが黒くなったものの残存しているのは山陰地区の標準。乗務員室窓バランサー点検蓋は、原型のままである。
屋根上は全ての通風器がハーフガーランド形へ変更されており、屋根上の水タンクは金沢地区に端を発する角型のものに交換されている。デッキ上の通風器は撤去され見当たらない。
床下機器はほぼ原型である。


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