キハ58 752 → キハ53 1002



JR線上の両運転台キハ58系として末期まで活躍した車両。ここでは母体のキハ58 752の歴史を振り返る。

1966年4月27日日本車両製の第6-6次車で、昭和40年度第1次債務で福知山機関区へ配置された。同一ロット751〜755のうち、751・752が福知山へ新製配置された。福知山ではキハ55系に混じり、山陰本線・福知山線の急行「丹後」「丹波」等で使用された。1970年頃には冷房化され、長く福知山で活躍した。1985年3月には、急行「きのくに」廃止により状態の良いキハ58が大量に福知山地区へ転入し、若番車を置き換えたが、当車は後期ロットでありそのまま福知山に残留した。国鉄最後の「61-11改正」で福知山線が電化され、急行「丹波」の廃止により当車は兄弟の751とともに1986年10月31日付で七尾機関区へ転出し、そのままJR西日本に継承された。JR化後すぐの1988年2月9日付で、七尾線末端部の単行運転のために両運転台化及び近郊化され、キハ53 1002となった。両運化直後は急行色のままであったが、程なく1988年3月26日付で七尾線普通色へ変更された。改造後間もない1991年7月には七尾線和倉電化及び末端部の第三セクター化により用途を失い、当車は高山本線北部に転用され、1991年に富山鉄道部へ転出した。転出後は塗装を緑色ベースの高山色へ変更しワンマン化改造された。高山線時代も長続きせず、1996年にはキハ120投入により余剰となり、当時未だ非冷房のキハ30やキハ52、運用効率の悪いキサハ34が残っていた高岡へ1996年3月16日付で転出し、高岡の車種統一に貢献した。高岡転出後は白色ベースに青と黄色の高岡色U-2に変更され、更に2000年頃から赤色ベースの現行高岡色Vへ変更された。しかし高岡へは各地からキハ40系が転入し徐々にキハ58系は淘汰され、2005年3月31日に廃車となった。

前位側 前面は、正面窓上の通風口が埋められ、水切りも撤去された金沢標準形態。福知山時代に後藤工場標準タイプの前面補強が施工されている。ワイパーはWP50へ更新され、その際に運転台側正面窓下手すりが短くなっているのは、後藤工場の標準形態である。制御ジャンパ受栓の位置、ステップの位置は、後藤工場標準の位置にある。放送ジャンパは、ワンマン化で1本増え、1本は新製時のステップ一体型の位置に、増設された1本はタイフォン上部付近にある。タイフォンカバーは後年スリット式に改造されている。
後位側 前面は、正面窓上の通風口が埋められ、水切りも撤去された金沢標準形態。金沢地区標準の前面補強が施工されていた。ワイパーはWP50へ更新され、運転室窓下の手すりがなくなっているのは、金沢地区の標準の形態である。制御ジャンパ受栓は、タイフォンの左右に分かれたタイプ。放送ジャンパは、ワンマン化で1本増え、2本ともタイフォン横ステップ下にある。タイフォンカバーはスリット状である。テールライトは左右とも内ばめ式である。
側面では、前面窓から延びる水切りが撤去されており、乗務員室窓のみに水切りが追設されているのは、金沢地区の共通事項。乗降ドア隅の丸穴が完全になくなっているのも、末期の金沢地区の特徴。ワンマン化に伴い、最前部の側窓下と、後位側の便所臭気抜き窓下に、ワンマン用スピーカーを備える。運転室側窓のバランサー点検蓋は、各々種車の形態を引き継いでいる。
屋根上は全ての通風器が原型の押し込み型通風器のままである。クーラーは、最前位のものだけ原型のスリットタイプで他はメッシュタイプであった。
床下機器はすべて灰色で塗装されているのは晩年の金沢地区の特徴であった。また、油タンクは角型の新型に更新されている。


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