キハ58 783(+キハ28 2092) → キハ53 1003



JR線上の両運転台キハ58系として最後まで活躍した車両。ここでは母体のキハ58 783の歴史を振り返る。

1966年5月21日日本車両製の第7-1次車で、昭和40年度第2次債務で旭川機関区へ配置された。同一ロットの782〜785のうち、782は苗穂経由で小牛田へ、783は旭川経由で美濃太田へ、784・785は苗穂経由で美濃太田へ配置された。旭川へは夏季輸送用の仮配置で、1966年9月18日に美濃太田へ転出している。美濃太田ではキハ55系に代わり高山本線の急行「のりくら」及び高山本線〜北陸本線の循環急行「しろがね・こがね」で使用された。1972年3月のダイヤ改正で循環急行「しろがね・こがね」が廃止となり、当車は1972年6月30日付で長野機関区へ転出、中央西線の急行を中心に使用されるようになった。しかし、1973年の中央西線電化により気動車急行の削減が続き、1974年7月7日付で七尾機関区へ転出した。七尾ではキハ55に代わり急行「能登路」で使用された。七尾は長らくキハ55系急行の天下であり、冷房電源つきキハ28の配置も無かったことから非冷房のまま活躍したが、1978年の急行「ちくま」「ゆのくに」「えちご」の電車化により長野や美濃太田、金沢から冷房車が大量に七尾に流れ込んだことにより、車齢の若い当車は冷房化の対象となり、キハ58系では晩年の1979年に冷房化された。引き続き七尾線の急行及び普通列車で使用された。七尾配置のままJR西日本に継承されるが、1988年3月26日付で、七尾線末端部の単行運転のために両運転台化され、キハ53 1003となった。この際に使用された運転台は、その形状から1987年1月14日付で廃車となったキハ28 2092のものであることがほぼ確実である。両運化直後は急行色のままであったが、程なく1989年2月10日付で七尾線普通色へ変更された。改造後間もない1991年7月には七尾線和倉電化及び末端部の第三セクター化により用途を失い、当車は高山本線北部に転用され、1991年に富山鉄道部へ転出した。転出後は塗装を緑色ベースの高山色へ変更しワンマン化改造された。高山線時代も長続きせず、1996年にはキハ120投入により余剰となり、当時未だ非冷房のキハ30やキハ52、運用効率の悪いキサハ34が残っていた高岡へ転出し、高岡の車種統一に貢献した。高岡転出後は白色ベースに青と黄色の高岡色U-2に変更され、更に2000年頃から赤色ベースの現行高岡色Vへ変更された。しかし高岡へは各地からキハ40系が転入し徐々にキハ58系は淘汰され、2005年8月19日に廃車となった。

前位側 前面は、正面窓上の通風口が埋められ、水切りも撤去された金沢標準形態。後期車であり前面補強は施工されていない。運転台側正面窓下手すりは撤去され、金沢標準形態である。制御ジャンパ受栓は、2つ離れた位置に移設され、後期冷房車の標準的仕様。放送ジャンパは、ワンマン化で1本増え、1本はステップの下に、増設されたものはステップの上部付近にある。タイフォンカバーはシャッター付きで落成しているが、七尾時代にスリット式に改造されていた。テールライトは新製時から外ばめであった。
後位側 前面は、正面窓上の通風口が埋められ、水切りも撤去された金沢標準形態。金沢地区標準の前面補強がされていた。特異なのは正面窓下手すりが運転席側・助手席側ともに撤去され、キハ28 2092とキハ58 712にのみ見られる形態であった。貫通扉には千葉時代のヘッドマークステーが残っており、これも2092の特徴を引き継いでいた。制御ジャンパ受栓は、2つ離れた位置に移設され、後期冷房車の標準的仕様。放送ジャンパは、ワンマン化で1本増え、2本ともタイフォン横にある。助手席側ステップの位置は、1次車までと同じ位置に移設され、2092の特徴であった。タイフォンカバーは新製時からスリット式で、金沢地区に見られる傘は付いていなかった。テールライトは金沢地区でのみ見られる、運転台側のみが外ばめに改造された形態であった。
側面では、前面窓から延びる水切りが撤去されており、乗務員室窓のみに水切りが追設されているのは、金沢地区の共通事項。乗降ドア隅の丸穴が完全になくなっているのも、末期の金沢地区の特徴。ワンマン化に伴い、最前部の側窓下と、後位側の便所臭気抜き窓下に、ワンマン用スピーカーを備える。
屋根上は全ての通風器が原型で残っており、この時期の金沢地区配置車では珍しかった。
床下機器はすべて灰色で塗装されているのは晩年の金沢地区の特徴であった。また、油タンクは角型の新型に更新されている。


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